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海の使者ジュゴン

  • 2017年11月22日
  • NACS-J

伝説の生きものジュゴンは今も生きている

 沖縄が梅雨明けして2日後の今年6月24日、私もメンバーである「北限のジュゴン調査チーム・ザン」では、ジュゴンが餌を食む名護市東海岸で親子対象の「ジュゴンの海観察会」を行いました。まぶしい陽射しに海の青さがぐーんと深まり、大潮のこの日、潮が引くにつれて姿を現すリーフが私たちを誘っているようです。
 しかし、浅くなった海を歩くたびに水は濁り、次第に水面に現れてきた海草藻場(ジュゴンの餌場)は赤土にまみれています。梅雨の末期に降った大雨で土砂が大量に流出し、この海も真っ赤に染まったことを思い出しました。ジュゴンは赤土の付いた海草は嫌うと聞いたことがあるので心配です。それでも、「あ、食み跡だ!」「こっちにもあるよ!」と声が上がり、子どもたちが興味津々でのぞき込んでいます。
 世界の北限に位置し、わずかな数で生存を維持している沖縄のジュゴンたちが命をつなぐ重要な餌場である沿岸の海草藻場は、人間活動の影響をもろに受けます。こんな厳しい状況の中でもしっかり餌を食べ、生きているジュゴンに、思わず「ありがとう!」と手を合わせました。

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▲海草を食べるジュゴン。食べた痕跡が食み跡となって残される。(写真:PIXTA/海外にて撮影)

人とのつながりは先史時代から

 サンゴ礁に囲まれた琉球の島々に、いつごろから人が住み始めたかは定かではありません。ジュゴンたちはおそらく、人間よりもずっと昔から、この島々の沿岸に豊かに茂る海草を糧としながら、ゆったりと生きていたと思われます。先史時代の遺跡からはジュゴンの骨や骨の加工品(腕輪、蝶型骨器など)が出土しています。人々がここに定住し始めた当初から、ジュゴンと人とは密接なかかわりを持ってきたのでしょう。

海からの情報の伝え手

 海が暮らしの中心であったころ、琉球諸島の沿岸、すなわち人々の生活圏の中にいる身近な存在であったジュゴンの呼び名は、「ザン」「アカングヮイユ」「ヨナタマ(宮古島のみ)」などとさまざまなものがありました。
 「ザン」、「ザンノイオ(犀の魚)」の呼び名に当てる『犀』は津波のことを指すと考られ、津波を呼ぶ魚としてこの名が付けられたとも言われています。「アカングヮイユ(赤子魚)」は、ジュゴンの鳴き声が赤ん坊の泣き声に似ていることに由来するとされていて、群れで生活し、互いに鳴き声で交信していたかつての様子を彷彿させます。また宮古島での呼び名である「ヨナタマ」は、柳田国男によると「ヨナ」が海を意味する古語で、「タマ」は神様を意味することから、「海の神」を意味すると言われます。ジュゴンは、海(自然)からのさまざまな情報の伝え手として、また不思議な霊力を持つ生きものとしても人々の暮らしにかかわってきました。

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▲海の神、竜宮神をまつる祠。ジュゴンは海の神、あるいは海と人とをつなぐ不思議な霊力を持つ生きものと考えられていた。(写真:イメージミル)

ジュゴンから見える自然を敬う精神文化

民話や伝説の中のジュゴンは、津波を予言する者(1771年、八重山・宮古を襲った明和の大津波にまつわる)、人間と結婚する者(「人魚女房」)、人間に性の営みを教える者(古宇利島の民話)など、さまざまな様相を持っています。
 また、水平線の彼方に理想郷(神々や祖先の魂の居場所)があるというニライカナイ信仰とも相まって、ニライカナイの神々の使者、または神々の乗り物とも言われ、食糧である一方で、畏敬の対象でもあったのです。そこには、自然の恵みをいただきつつ自然を敬うという精神文化が生きていました。
 琉球王府時代には、「おもろさうし」や各地域の神歌などにジュゴン漁が唄われ、八重山の新城島から王府に税としてジュゴンが献上されたという記録が残っています。不老不死の妙薬とも言われたジュゴンは、干し肉(燻製)にして王府に献上されていたのです。ジュゴンの骨は島のウタキに奉納されました。しかしそれは年間2~3頭で、ジュゴンの捕獲が王府の管理下に置かれていたことを示しています。
※シマ(ムラ)建ての祖先神をまつり、祭祀などを行う場所。聖地とされる。

300頭以上の捕獲記録も

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▲ジュゴンが餌場として利用する海草藻場が広がる辺野古・大浦湾(新基地建設工事開始以前)。写真中央が辺野古崎。岬左側の浅瀬には藻場が広がっている。岬右側は大浦湾。岬左側の辺野古沖より水深が深く青く見える。

 ジュゴンをめぐる環境は、日本(明治)政府によって琉球王府が滅ぼされた1879年以降大きく変わりました。ジュゴンの捕獲は無政府状態となり、また漁業技術の進歩もあって1890年代から1910年代にかけて300頭以上が捕獲されたという記録があります。
 1912年にはジュゴンは禁漁となりますが、1945年の沖縄戦は沿岸域にすむジュゴンたちにも大きな影響を与えたと考えられます。そして、戦後の食糧難がジュゴンにさらなる追い打ちをかけました。人々は海に糧を求め、戦争の残した爆弾でダイナマイトをつくり、海に投げ込み魚を獲りました。みんなで分け合った獲物の中に「ジュゴンの肉もあった」と地域のお年寄りは語り、「おっぱいもホーミ(女性器)もあってね、女だったよ」と小さな声で教えてくれた女性もいました。
 戦後の基地建設や戦後復興は、島々の自然生態系に多大な負荷を与えました。人間活動の影響を受けやすい沿岸の海草藻場は、埋め立てを伴うさまざまな開発、農地からの土砂や化学物質(農薬や肥料)の流入、企業や家庭排水などにより失われ、あるいは劣化し、ジュゴンの生息環境は悪化する一方です。1955年、米軍政下の琉球政府はジュゴンを天然記念物に指定、1972年の「日本復帰」とともに日本の天然記念物になりましたが、政府は有効な保護の手立てを一切行っていません。奄美では1960年、西表島では1967年の目視記録を最後に、奄美や八重山での記録は途絶え、今や、沖縄島北部沿岸にわずかな数を確認するのみとなっています。
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▲名護市東海岸の海草藻場でのジュゴンの食み跡観察会(写真:鈴木雅子)。
 今や絶滅危惧種となったジュゴンですが、私たちは「ジュゴンと共に生きる未来」に向けて努力を続けています。私たちの身近に今なお生き続けるジュゴンは「奇跡」であり、満身創痍となった沖縄の自然、失われつつある自然と人とのつながりを取り戻すための「希望」でもあるからです。


●浦島 悦子

鹿児島県生まれ、沖縄県名護市在住。フリーランスライター。
主な著書に『やんばるに暮らす』(ふきのとう書房)など。

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※掲載している写真やデータは、会報『自然保護』掲載時(2017年)のものです。
 出典:日本自然保護協会会報『自然保護』No.559(2017年9・10月号)

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