サイト内
ウェブ

東京ではできない暮らしを見つけた一家の移住ストーリー

  • 2023年8月18日
  • コロカル

移住のきっかけと下田に決めた理由

伊豆下田に移住してきて7年目の津留崎家。東京では充実して過ごしていただけに、下田に移住してきた理由を知りたい人が多いようです。

最近では移住のきっかけを人前で話す機会も増えたとのこと。そこで今回は地元の若者に伝えたい、移住のきっかけと下田に決めた理由を教えてくれました。

若者に「なぜ移住? なぜ下田?」を話す意味は?

2017年春に下田に移住してきたので、7年目の夏となります。下田といえば多くの海水浴場を有する夏の観光地です。海水浴、花火や祭などコロナ禍にあってはいろいろと難しい対応を迫られていましたが、やっと通常運営できるとあって以前の活気を取り戻しています。(昨年、市内に数多くある海水浴場それぞれの特色を紹介した記事を書きました。この夏、下田の海への旅行を計画されている方、是非参考になさってください!)

という下田移住7年目の夏ですが、最近あらためて、地元の高校生や下田を訪れた若者に向けて、『なぜ移住したのか? なぜ下田なのか? 東京での暮らしと何が変わったのか?』そんなことをお話しする機会が増えてきました。

多くの地方でそうでしょうが、下田市も少子高齢化、人口減少に悩まされております。とはいっても、ひと家庭での子どもの人数は東京に比べると多いです。(実感としても感じますが、都道府県別出生率のデータを見ても明らかです)

でも、ひと家庭あたりの子どもが多くても、子育て世代が少ないので結果として少子化・人口減少が進んでいます。

廃校となった下田東中学校の教室

2021年に下田市に4校あった中学校は合併されて1校に(写真は廃校となった下田東中学校)。

なぜ、子育て世代が少ないのか? というと、進学や就職といったタイミングで東京などの都市部へ出た地方の若者が地元へ戻ってこないからです。ではなぜ地元へ帰ってこないのか? というと、地方は『仕事がない』とか『社会的インフラの不備(交通が不便だったり病院が少なかったり)』といった要因がいわれています。確かにこうした要因もあるのかとは思いますが、実際に地元に帰ってくる人も少なからずはいて、そうした人たちに共通するのが『郷土愛』です。

あわびを獲る漁師の森英一さん

カメラマンである妻が、地域の海女さんや漁師さんを収めた写真展を開催した件はこの連載でもお伝えしました。その写真にも度々登場する漁師と電気業を営む森英一さんは、わが家と同時期にUターンで下田に戻って来られました。彼もやはりすごく下田愛にあふれていて、そして、下田での暮らしを楽しんでいます。

そうした状況から、地元の若者にもっと地元を好きになってもらおう、地元の魅力を知ってもらおうということで、若者たちが目指す東京から下田に移住してきた自分のような移住者にお声がかかるのでしょう。

実はこの連載でも、初期にそうしたことを書いてきましたが、2016年に連載を始めてから随分と回数も重ねております。そこで今回は、あらためて『なぜ移住? なぜ下田に?』について、そして『移住して暮らしはどう変わったのか?』について書いてみたいと思います。

移住を考えている方の参考にしていただくことの多いこの連載ですが、地方に暮らしていてあたり前に『将来はこの不便な田舎から東京へ脱出するんだ!』と考えている若者にも読んでもらえたらうれしい!!!です。

移住を考えるキッカケは「東日本大震災」

あらためて生い立ちから振り返ります。今では田舎のオッサンにしか見えない自分ですが、新宿区で生まれ、小学校の数年間を渋谷区で過ごし、また新宿区に戻ってきて高校も新宿……という都会っ子でした。大学で建築を学び、卒業後は都内の設計事務所に勤務。その後、紆余曲折あり、池袋から数駅の江古田という学生街で自営業で飲食店をやり、閉店後は原宿や目黒、恵比寿という全国的にも知られるようないわゆる「オシャレっぽい?まち」でインテリアやリノベーションの仕事をしたり。

30代半ばで知り合って結婚した妻は、当時はこのコロカルを運営する出版社〈マガジンハウス〉に籍を置くフォトグラファー。ふたりともの実家が都内で行きやすく、初めての子どもの出産を控えている状況では、実家が近いというのはかなりのメリットです。今、あらためて考えてみても、よくこの状況で移住を決意したなあ……というほどに恵まれた「東京暮らし」の状況で、何の疑問も持っていませんでした。

そんなときに、東日本大震災が発生したのです。移住を考えるキッカケは人それぞれかと思いますが、わが家の場合は『東日本大震災』でした。震災……? 自分のような昭和世代にとっては、割と最近の出来事のように感じている東日本大震災ですが、例えば、先日話をした高校生にとってみると記憶があるかないかという時期の出来事なのです。

震災がキッカケで移住を考える? というのがそもそもピンとこないのだ、という世代間ギャップにこちらとしても驚いてしまいますが、あのときに起こったことをしっかり伝えていく必要も感じました。

震源地から遠く離れた東京でもかなり揺れました。電車は止まり、道も大渋滞。平日の昼過ぎに発生したこともあり職場から自宅に戻れないという帰宅難民が多くでました。

僕は割と自宅から近い場所にいたのでなんとか帰ることができたのですが(とはいっても2時間くらい歩きました)、途中、足止めされていた吉祥寺駅のテレビモニターに人だかりができていて、そこにリアルタイムで映しだされた津波がまちを襲う様子、その映像を見て泣き叫ぶ人の声は今でも忘れられません。

自宅に戻ってからは、食品や水を手に入れなければとスーパーに向かったのですが、いつも溢れんばかりに陳列してあるスーパーの食品や水の棚はガラガラになっていて、次にいつ物が入ってくるかまったくわからないと言われて呆然としました。

空になったスーパーの棚

その後、原発事故もあり、停電があったり、電力不足を補うためにまちの街灯が消えて、普段は明るい東京の夜が真っ暗になっていたことを覚えています。また、東京でも水道水や土壌の放射能汚染が懸念されたりもしました。

東日本大震災での混乱を経て変わった価値観

そんなこんなの大混乱のなかで感じたことが、「この社会の仕組みのなかで、お金を稼いで消費することで暮らしを成り立たせているけど、その仕組みが機能しなければ、稼いだお金を使うことすらできなく、何ひとつ自分ではできないではないか……」。

そう考え始めると、自分がいかに「消費するだけの暮らし」をしていたかを思い知り、少しでも必要なものを「つくる暮らし」にシフトすることを考え始めました。その理由には妻が初めての子どもを身ごもっていたこともあったように感じます。

生まれたばかりの娘さんの手をにぎる津留崎さん

震災から3か月後、妻と僕にとっての初めての子どもが無事に生まれてくれました。感謝。

「『稼いで消費する』を繰り返していくのは、この社会にとっては必要なコトなのだろうけど、それはそもそも人間らしい生き方といえるのだろうか? 父親になるのであれば、もっと暮らしに必要なものをつくれるようになりたい……」

そんな思いから、主食である米をつくれるようになりたい、家も自分でつくれたら、エネルギーも自給できたら……、と考えるようになったのです。

そんな暮らしはこれまで暮らしていた東京ではできないのでは? ということで、自然と地方への移住を考えるようになったのです。とはいってもわが家が下田に移住してきたのは2017年。震災から6年も経過してからです。

やはり先ほど書いたように恵まれた東京での環境もあって、なかなか行動に移せませんでした。ふたりともが正社員で収入的には安定していて、ふたりの実家も近い。初めての子育てに恵まれすぎた環境。その状況を捨てて、子育ても仕事もプライべートも全く先の見えない新天地への移住は、相当に決意と覚悟がいりました。

でも、やっぱり一度考え始めた「消費するだけの暮らし」から「つくる暮らし」へシフトしたいという気持ちは消えることがなく、娘が小学校に上がるまでには移住をしよう! と妻と決めて、動き出したのです。

「つくる暮らし」はどこでできる? 移住先探しの旅へ

2016年に勤めていた会社を辞めて、その夏から「移住先探しの旅」をしました。移住先探し? というのも、先ほど書いたとおり僕も妻も東京育ちで地方に縁がなかったので、我らが目指すような暮らしができる土地を探そうではないか? となったのです。実はこの連載はその旅とともに始まりました。

どこにたどり着くのか? 移住は成功するのか? まったく見えないのに、よく連載を始めたものだと当時の自分たちに驚いてしまいます。

ワンボックスカーを改造中

車を車中泊仕様にDIYでカスタムして旅にでました。良き思い出です。

岡山や徳島、淡路島をまわり、三重県にたどり着き、縁があって紹介してもらった三重と奈良との県境にほど近い山奥の集落の家に出合い、移住先探しの旅は終わったかのように見えました。

敷地の中に田んぼがあり、畑をする土地も十分にあって、自分が思い描いていた「つくる暮らし」をするにはもってこいの環境で、意気込んで暮らし始めたのです。ところが便利すぎる東京でしか暮らしたことがなかった我ら3人にとって、その山奥の家はハードルが高すぎました。いろいろと思うようにいかない点があって、結局はそこに移住することを諦めたのです。

そして、再度移住先を探す旅をすることにしたのですが、その場所として選んだのが伊豆半島でした。実は、伊豆半島は当初から話に出たことがあったのですが、「観光地」のイメージが強すぎて、自分たちの求めるような暮らしはできないと思い込んでいたのです。

でも、いくら暮らしに必要なものを「つくる暮らし」とはいっても、もちろん稼がなければいけません。観光という産業があれば、仕事を見つけたりつくったりもしやすそうだ。そうした思いも、一度山奥での暮らしを挫折した経験があったからこそのものだったといえます。

観光地での「つくる暮らし」?

そして伊豆半島をめぐって、先端に近い下田に行きついたのです。

下田の海を散歩する津留崎さんと娘さん

その海の美しさ、開国の歴史や人を受け入れて成り立つ観光地ならではともいえる開放的な人柄にとても惹かれました。また、伊豆南部の中心地ということで、人口2万人という小さな自治体でありながらも行政機関、病院、高校、スーパーやホームセンター、家電量販店、カーディーラーなどが集約されていて暮らしやすそうです。ここでは米づくりはできないか? とも感じるほどに田んぼは少ないのですが、知り合った人が田んぼをやっていて、米づくりできるよと聞きホッとしました。そして、条件のいい賃貸の家を紹介してもらえることになったのです。

山から見下ろした下田のまち並みと下田富士

海と山に囲まれた開国の港町、下田。主幹産業は観光ですが、漁業も盛んで名物のキンメダイは全国一の漁獲高を誇る。

三重の山奥の家で挫折した経緯から、いきなり購入するというのは避けたく思っており条件のいい賃貸の家はとてもありがたかったです。その家の立地は、コンビニやファミレス、牛丼チェーンに加えて海水浴場や日帰り温泉施設まで徒歩圏内、観光地ならではの飲食店が立ち並ぶ「まちなか」エリアにも自転車で行けるという、当初想定していた「田舎暮らし」とはだいぶ方向性が違いました。

とはいえ、広い庭では野菜をつくることもできそうだし、近場に釣りスポットも多くあったりと、この地ならでは、自分たちなりの「つくる暮らし」ができるのでは? とその家を借り始めたのです。

真っ青に澄んだ下田の海

こんな綺麗なビーチが徒歩圏内に!? 当初はまったく思い描いていなかった移住先ですが、子育てには最高の環境といえます。

移住して1年ほどしてから始めた念願の米づくり。下田の隣、南伊豆町の米農家 中村大軌さんや下田の友人たちのサポートがあって始めることができました。

田植え作業

初めての田植え。田植えまでの段取りは? どうやって植えるの? どう育つの? 水はどうやって引いてどう貯めるの? とにかく、わからないことだらけでした。

さらには、知り合った猟師さんがシカやイノシシをさばくのを手伝ったり(免許もとりましたが、未だに自分ひとりでは何もできないペーパー猟師です……)、仕事では農園の開拓を手伝ったりと、いわゆる「田舎暮らしスキル」もそれなりに身につけていきました。結果としては、コンビニや飲食店が近くにあったり海水浴場の近くだったりという日常を便利に楽しめるような立地でありながら、米づくりなどの「田舎暮らしスキル」も身につけることができて、本当にありがたい環境だと感じています。

その後、賃貸では物足りなくなり、同じ集落に古民家の空き家を見つけて、不動産業者を通さずに直接購入し(同じ集落に移住してきていたからこうしたやり取りが成立したのかと思います)、自分たちの暮らしにあうようにDIYでリノベーションしました。

購入した2棟の古民家

古民家の隣の離れも一緒に買わせてもらい、離れには東京でひとり暮らしをしていた僕の母親が移住してきて暮らしています。この2棟の住宅とさまざまな果樹が植わっている庭、10台は停めれる駐車スペースで、東京でいったら小さなマンションも買えないような金額で購入させてもらいました。すっからかんになりましたが、ローンを組まずに購入できたので、家賃もローンもかからずで本当にありがたいです。

古民家の床をリノベーション中

妻と娘も参加してリノベをしました。解体や大工工事、塗装、タイル貼りはほとんどを業者に頼まず自分たちで。

古民家では使っていなかった井戸を復活させたり、あらたに太陽熱温水器や薪ストーブを導入したり。まだまだ発展途上ではありますが自然の資源・エネルギーを無理なく取り入れる暮らしを探求していきたいと思っています。

移住して経済的にはどう?

仕事の面でも、観光地下田ならではのワーケーション施設の運営や地域の関係人口創出事業などに関わらせてもらって、ある程度の収入を確保できています。

もちろん東京で会社員をしていたときに比べると収入的には激減、半分以下ではあるのですが、ローンも家賃もないし、休みの日には近くの海で遊べば十分すぎるほどに楽しいし、米づくりをしているので米を買わなくなったし、誰かにちょっとした手土産というのはだいたい米や庭でとれる果実を渡すようになりました。

ただ、米づくりに関しては経済的な負担減というより、充実感を味わえる点にメリットを感じています。

透明度の高い爪木崎の海

こちらは自宅から車で10分程度、景勝地としても知られる爪木崎の海です。シュノーケリングが楽しめます。近所のこの美しい海でシュノーケリング……なんとも贅沢です。

袋詰めされた自家製米

自家製米は手づくり〈つる米〉スタンプを押して渡しています。これほど手間と愛のこもった、そして誰もが消費するので邪魔にもならない手土産はない! と自信をもって渡せるのがうれしいです。手土産のために何かを「買う」というのがほとんどなくなりました。

田んぼ作業中の津留崎さん

田植えも稲刈りも草取りも手作業。無農薬の米づくりではかなりカラダを酷使します。もうすぐ50になるのですが、そんなカラダの使い方をしていることもあり体型はキープしています(髪の毛はどこかにいってしまいましたが……)。都市部の暮らしだとお金を使ってジムに行き体型をキープしたりするそうですが……まったく無縁の世界です。

そんなこんなで、下田に移住してきて「消費するだけの暮らし」から「つくる暮らし」へとシフトしています。でも「つくる暮らし」というにはあまりに中途半端かもしれません。米をつくってはいても、野菜や肉・魚、卵などは基本的に買っています(野菜や魚はありがたいことによく頂きます)。

『疲れた……今日ご飯つくるのめんどくさい』って日には近くの牛丼チェーンで食事をすませることもあります。エネルギーに関しても、薪ストーブや太陽熱温水器で家庭で使用するエネルギーのほんの一部をまかなうことができるようにはなりましたが、自給しているわけではないです。

リノベーションしたリビングで津留崎さんの奥さんと娘さんが食事の準備中

当初目指していた、ストイックな「つくる暮らし」にはほど遠いですが、これが自分たちらしい、下田らしい「つくる暮らし」だと感じています。

ということで、最近、若者たちに向けてお話させてもらう、「なぜ移住? なぜ下田?」について書いてみました。これを読んで、都市部から移住したくなっちゃった人、Uターンで地元に帰りたくなっちゃった人がいたらうれしいです!

文 津留崎鎮生

text & photograph

Shizuo Tsurusaki

津留崎鎮生

つるさき・しずお●1974年東京生まれ東京育ち。大学で建築を学ぶ。その後、建築家の弟子、自営業でのカフェバー経営、リノベーション業界で数社と職を転々としながらも、地方に住む人々の暮らしに触れるにつれ「移住しなければ!」と思うように。移住先探しの旅を経て2017年4月に伊豆下田に移住。この地で見つけたいくつかの仕事をしつつ、家や庭をいじりながら暮らしてます。Facebook Instagram

あわせて読みたい

キーワードからさがす

gooIDで新規登録・ログイン

ログインして問題を解くと自然保護ポイントが
たまって環境に貢献できます。

掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。
Copyright © Magazine House, Ltd. All Rights Reserved.