厚生労働省によると、「ヤングケアラー」とは法令上の定義はないものの、一般に、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子どもとされています。
現代で「ヤングケアラー」の存在が少しずつ浮き彫りとなり支援が課題となっている中、「ヤングケアラー」の実情について、現役ケアマネジャーとして働く美齊津康弘さんにお話をうかがいました。
美齊津康弘さんは、小学5年生にして「ヤングケアラー」となった実体験を元にした『48歳で認知症になった母』の原作者としても活動されています。美齊津康弘さんの壮絶な体験は私たちに「ヤングケアラー」の過酷さを教えてくれます。
明るく優しく自慢だった母
「母を思い出すと30年以上経った今も心が痛みます」という美齊津康弘さんは水産会社経営の父、父の会社で経理として働く母、兄との4人暮らしでした。
お兄さんと年の離れた末っ子の美齊津さんは両親に甘やかされ育ったといいます。「忙しい父、そして思春期で口数の少なかった兄という家庭の中で母との時間が一番多く、一番好きでした」。
家庭はどちらかというと裕福で、年に1回は家族旅行へ。誕生日やクリスマスには欲しいものを買ってもらえていたという美齊津さん。いつも明るくて誰にでも優しい「自慢のお母さん」だったといいます。そんな毎日が続くと思っていたのですが…。
ショッピングセンターで感じた異変
美齊津さんが感じた母の異変は近所のショッピングセンターでの出来事でした。
「お母さん」と出かけた近所のショッピングセンターで「おもちゃ売り場を見てくる!」と離れて行動していたところ、はぐれてしまったのです。
美齊津さんが戻った時、店内に「お母さん」の姿はありませんでした。駐車場に車もなかったことから「お母さんに置いていかれた…」と家に自力で戻ると、家には「お母さん」の姿が。ぼんやりと「…やることがあったの…」と力なく答える姿に子どもなりに胸騒ぎを感じたといいます。
鏡に向かって独り言を繰り返すようになった母
ある日、「お母さん」が鏡に向かってブツブツ話をしているところを目撃した小学生の美齊津さん。独り言は次第に大きくなり「あなたが悪いんでしょ!」「バカなこと言わないで!」とエスカレート。
状況がわからない美齊津さんは「お母さん…?」と話しかけたのですが、振り向いた顔は「まるで他人を見るような目」だったそうです。
「まだ40代、明るく優しかった母に何が起きたのか小学生の僕はわかりませんでした」と美齊津さん。
美齊津さんは「母は日常的に車の運転をしていたのですが、だんだんと交通ルールを守れなくなっていきました。ウインカーを出さずに曲がるようになったり、車道と間違えて歩道を車で走ってしまったり。いつも助手席に乗っていた私は、子ども心にとても冷や冷やしたことを覚えています」と語ります。
ホットケーキから火が!母は料理の作り方も忘れていき…
ある日家にいた「お母さん」にホットケーキをせがんだ美齊津さん。
「材料もあるし作って」とお願いするも、「作れるかしら…」と不安そうだったといいます。
テレビを見ていた美齊津さんは部屋が焦げ臭いことに気づきます。台所に見に行くとフライパンから火が!
とっさにの対応で大事に至らなかったものの…。
「おそらく料理の仕方も忘れていたのでしょう」と美齊津さん。
「お母さん」の様子がおかしい、そう思いつつもまだ小学生だった美齊津さんは状況が把握できずにいました…。
友達から言われた「やっちゃんのお母さんの服汚いね」
元気なときは毎日着るものもきちんとして、化粧もしていたという「お母さん」でしたが、そのうちに身だしなみにも無頓着になり、何日も同じ服を着ていたそうです。
それを見た友達に「やっちゃんのお母さんの服汚いね」と言われてしまうほど。入浴をすすめても嫌がるようになってしまいました。
ある日鏡に向かって「しっかりしなさいよ。何やってるの。できるでしょ」と語っているところを目撃したそうです。それでもなんとか家事をしようとするなど、変わっていく自分になんとか抗おうとする「お母さん」の姿があったのです…。
それでも残酷に病気は進行していきます。
逃げるように外遊びに出かけた美齊津さんが家に戻ると、料理をしようとしていた「お母さん」が再びボヤ騒ぎを起こしてしまいます。間一髪だったそうですが、「この先母をどう扱っていいか誰も分かりませんでした」と回想します。
お兄さんはというと、家族と顔を合わせるのは食事時だけ。
大学受験を控えていたこともあり、学校以外自室から出てこなくなったといいます。
父は会社経営で多忙。そのため、学校からの帰宅後「お母さん」の面倒を見るのは美齊津さんのみ…。
荒れていく生活。徘徊を繰り返す母は住んでいた家のドアをガチャガチャと
中学生になった美齊津さんの帰りが遅くなると生活もどんどん荒れていったといいます。
症状が進行していく「お母さん」は鏡の前でブツブツと独り言を繰り返すばかり。そして、お兄さんは「東京の大学に行くから」と独立宣言…。美齊津さんは「置いていかれた」と思ったそうです。
まだ包括支援センターもなく支援が充分ではない時代。頼れるのは身内だけ、と美齊津さん一家は叔母さんが一人で住む、近所の一軒家に引っ越すことになりました。
料理と洗濯は叔母さんがしてくれたそうですが、「他人の家にいる」というストレスもあり「お母さん」の病状は急速に進行。
そのうちに徘徊を繰り返し、その都度「お母さん」を探し回ったそうです。叔母さんに「お母さんどこに行ったんですか?」と聞いても「知らない」と…。
「お母さん」は数百メートル離れた元の家に行くことが多かったそうです。ガチャガチャとドアを開けようとしている「お母さん」を連れ戻す美齊津さんに、「アレがあるのよ」「みんなちゃんとやってるのよ」「そんなことやったらダメでしょ!」と意味不明の言葉を繰り返すことも。
そのうちに、汚い服のまま裸足で学校に行く美齊津さんを追ってくるようになってしまったそうです。友人には話していなかったため「なんか変だね…」と噂され、ますます美齊津さんは気持ちの面で孤立していったといいます。
当時もしも私の身近なところに、1人でも話を聞いてくれる『味方』と感じられる人がいたら…
美齊津さんは「お母さん」についてこう回想してくださいました。
「明るくて活発でよく笑う母は誰にでも優しく、場の空気を和ますことのできるお茶目な人でした。
そんな自慢の母が時々鏡に向かって独り言を言うようになりました。そのうちに周りに人がいても、鏡を見ると話を始めるようになり、次第にエスカレートしていきました。
アルツハイマー病という病名やその症状、そして現代医学では不治の病であることも知らなかったので最初のころは『これは夢に違いない。ある日目が覚めたらお母さんは元通りになるはずだ。』といつも考えていました」と語ります。
そして、現在課題となっている「ヤングケアラーの支援」については、
「当時もしも私の身近なところに、1人でも話を聞いてくれる『味方』と感じられる人がいたとしたら、周囲から孤立せずあれほど苦しむ事もなかったのではないかと思っています。ヤングケアラーの中には、子どもの頃の私のように、孤独の中で希望を持てなくなってしまう子が大勢います。
でも、将来ケアの役割から解放されたときには、再び自分の足で前進していける強さを持ってほしいのです。その為には、とにかく今この時を、すべてを諦めることなく希望を持ち続けながら何とか乗り切ることが大切だと思っています。
多くのみなさんには、今も声を上げずにじっと耐えている沢山のヤングケアラーが身近にいる事を知って頂き、もし自分の身の回りにそのような子どもがいたら、挨拶だけでもいいので声をかけてあげて、彼らの「味方」になっていただきたいのです」
と自らの壮絶な体験とともに語ってくださった美齊津さん。
もし両親になにかあった時、家族がケアをすることは自然なことと思ってしまいがちです。しかし、美齊津さんのように小学生で介護をしなければならなくなったとしたら…。遊びや勉強、子どもらしい時間が育む貴重な成長の機会を失う可能性もあります。周囲の子どもたちとの環境の違いを感じながらも誰にも相談できないまま孤立を深めてしまう場合もあるでしょう。
「苦しい、どうしていいかわからない…」彼らの心の叫びを察知して、周りの大人ができることは何か、美齊津さんの経験談を通して改めて考えてみませんか?
【プロフィール】
美齊津康弘
1973年福井県出身。防衛大学卒業後、実業団のアメリカンフットボール選手として活躍し、日本一となる。幼少期ヤングケアラーとして過ごした経験をきっかけに、選手引退後は介護の道へ進む。現在はケアマネジャーとして働きながら、自ら開発したWEBシステム「えんじょるの」を使って、買い物弱者問題の解決に取り組んでいる。
漫画:吉田美紀子
山形県出身。20代からマンガ家として主に4コマ誌で活躍。セカンドキャリアで介護の仕事を始める。著作に「40代女性マンガ家が訪問介護ヘルパーになったら」(双葉社)、「消えていく家族の顔」(竹書房)があり、SNSでも発信をしている。
【レタスクラブ編集部】