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海野和男のデジタル昆虫記

フイリッピン(昆虫写真家への道5)

フイリッピン(昆虫写真家への道5)
2007年01月15日


 4年になって、日高先生の研究室に行けることになった。当時は違う学科や違う学校で卒論をやるのは一般的ではなかったが、日高先生のところには日本女子大や横浜市立など他の学校の学生も出入りしていた。
 日高先生は開かれた大学を目指しておられたのだと思うが、当時の状況で教授会などを説得するのは大変だったろうなと、今になって思う。日高先生の大学教育に対しての情熱があって、ぼくの今があるなと思う。どうぶつ奇想天外で活躍されている千石さんも日高研に出入りしていた。昆虫写真家に限らず、日高研に出入りした人はジャーナリズムなどで活躍する人も多い。
 4年を前に、昆虫採集と撮影に東南アジアに1カ月ほど旅をした。当時は海外旅行が自由化されて間もない頃で1ドル360円 ブラジルへ行こうと思って家庭教師などのバイトで貯めたお金を使ってアジアに行った。当時の海外旅行は円が安かったから、今よりもお金がかかった。ブラジルに行くには100万円近いお金がかる。今のような安売りチケットはなく、周遊券のようなものが一番安く、それでもマレーシアまで航空券だけで12万8千円もした。公務員の上級職の初任給が36000円程度の時で、一日バイトしても数百円しかもらえなかった時代だ。
 約1ヶ月フィリピン、マレーシアなどを回った。最初に行ったのがフイリッピンのルソン島。バギオからバスで北部のサヤガンという場所へ行った。そこから畑の中を歩いて山に登る。当時はそんなことは考えなかったけれど、日本人の若者がカメラバックと網を持って一人で山に登るのはやはり相当怪しい。そこの場所は小諸の郊外をもっと田舎にしたような場所だ。
 2日目に農民に取り囲まれて、村長の家に連行された。山下将軍の宝を探しているのだろうと疑われたわけだ。アルミのカメラバックに金属探知器が入れてあるのではと思われた。ルソン島北部は戦争の後期に日本軍が逃げた場所だ。そしてぼくが行ったのは戦争が終わってから25年もたっていなかったのだ。25年前と言えば、今だとそんな昔のこととは思えない。けれど戦争当時は生まれていなかったから、当時は戦争なんて遠い昔のことと思っていたのだ。

写真はルソン島のバギオから北へバスで2時間ほどのサヤガンというバスターミナル。ただし写真は1977年ごろのもの。ペンタックスMX

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