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第33回 表現者/毛利臣男さん
演劇界(歌舞伎界等)、ファッション界に革命をもたらした表現とは…

  • 2016年6月9日
  • NPOローハスクラブ

ファッションショーの演出

毛利さんが最初にファッションに関わったのは、1973年のISSEY MIYAKE 第1回パリ・コレクションからで…その後のパリ・コレクションでデザインした「一枚の布」、あれは自然回帰でロハスにもつながりますね。

1987年スイミングプールでのパリコレクション
1987年スイミングプールでのパリコレクション
 「何か楽しくなるようなニットをデザインしてみませんか…」という一生さんのディレクションで、17歳の時アテネからクレタ島イラクリオンまでの船旅で、船員に教えてもらった風呂敷のような四角いニットを基本に絵を描き…ISSEY MIYAKE 1977年春夏コレクションで発表されたその四角いニット…「一枚の布」と名付けられたカーディガンが誕生しました。大きな拍手とブラボー!!!!  その時、一生さんの笑顔を見て僕はとても幸福感を味わいました。
 帰国後、ISSEY MIYAKEに毎日デザイン賞が授与され、西武美術館主催「一枚の布」と題して記念のショーが開催されました。一生さんのおかげで僕の名前が初めて演出としてパンフレットに記載され、京都からやって来た父と母が大変喜んでくれたこと、そして少し恩返しが出来たことで嬉しくなりました。

パリ・コレクションの会場が「地下鉄の駅」というユニークなファッションショーもありましたね。

毛利さんが描いたショーの絵コンテ
毛利さんが描いたショーの絵コンテ
 1989年、僕の演出でそこはISSEY MIYAKEという地下鉄の駅…僕が描いた大きなポスターの前で電車を待つ男たち…しかし、なかなか電車は来ない…男たちはあきらめ、首を傾げながら再びもと来た階段を上がって行く…その繰り返しがファッションショーになっていく…スーツ、カジュアルジャケット、コート、ニット等々の男たちが次から次へと現れては去って行く。やがて夜になり、タキシードの一団が手に手にマスクを持って登場…ISSEY MIYAKE駅は何か怪しい魔界空間に変化していく…
 ショーは服を観せるだけでなく、服と音楽と空間からその時代のメッセージを贈る…という大きな使命があります…この地下鉄をテーマにしたショーにはストリートミュージシャンが音楽を担当しました。

最近では使われていない古い施設などが再認識されるようになりましたが、そういう考え方、とてもいいですね。また、代々木公園、テントでのファッションショーも劇的なフィナーレだったと…

ラストシーンでテントの幕が上がり外の月夜が見える。1986年毛利のレディス最後の演出作品
ラストシーンでテントの幕が上がり外の月夜が見える。1986年毛利のレディス最後の演出作品
 ISSEY MIYAKEファッションショーの空間演出として僕の名前が出てから長い年月が経ち、世界で活躍中のトップモデルが代々木公園東京コレクション村に勢揃い…その時のフィナーレの演出プランは、テントのホリゾント幕が上がり、夜の森が見える…という趣向でした。ところが、クレーン車の重さで公園に被害でも出たら大変なことになると、一時は計画が危ぶまれました。
 しかし当日、いよいよラストシーン…予定通りの演出が開始され、夜空に渗む月が一生さんの笑顔と重なったショーになりました。

「テントの中では、あまりの舞台の美しさに感動した観客たちが思わず全員総立ちになり…まさか舞台後方のテントが開くとは…ショーが終わると各国のアーティストが続々と毛利の演出席に詰めかけていた。そして毛利臣男がこの世で最も尊敬する演出家モーリス・ベジャールは感激に涙した」と雑誌『ハイ・ファッション』に記されていますね。

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