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海野和男のデジタル昆虫記

自然写真家にとって科学とはなにか

自然写真家にとって科学とはなにか
2006年01月04日

 
 2000年ごろかと思うが、「あなたにとってとって科学とは」といったテーマで岩波の「科学」という雑誌にたくさんの人が文章を寄せたことがある。ぼくもその一人だったが、その時書いた文章の一部は高校の国語の入試問題に使われたりしたので、今でも時々参考書などに使われる。そうするとその出版社から些少ではあるがお金が入る。全部合計すれば最初の原稿料の何倍かになっているかも知れない。
 この文章は実は自然科学写真を志す人に向けて書いた文章であり、また自分に向けて書いた文章だ。今年は1日からはいつもとちょっと違って、メッセージ的なコメントを書いてきた。裏をかえせば、このところ昆虫の撮影をおこったているわけだ。たまにはそんな正月も良いのではとも思うのだ。
 昨日までの文章は何故かいつもと違って、ですます調になっていたのに気がついた。正月で改まるとそんなふうになるのかなと思った。ネットを見ていると最近は正月というのをあまり特別視しない人が多いのだなと思う。でもぼくはやはり正月は特別な時間でありたいと思うのだ。それで今日もメッセージということで、その時の文章の一部をのせてみることにした。

 ぼくは魚眼レンズを用い、チョウにレンズが触れるぐらいまで思い切り寄って撮影するのが好きである。このときのチョウとの駆け引きが面白く、最後には触るまでいっても逃げなくなることもある。そしてファインダーの中に現れた映像は虫が主役の不思議な世界だ。
 自然の写真は、被写体は同じでも、その意味は撮影者によって異なる。ある行動を見つけそれを記録しようとすることに、生きがいを感じる人もいる。ただよい写真が撮れてよかったと思う人もいるだろう。チョウの写真を撮ってチョウが逃げなければ、チョウが自分になついてくれたといって喜ぶ人もいるだろう。毎日同じ広場で同じキアゲハがやってきて手にとまる、チョウが自分になついたと感激していた人がいた。チョウが人になつくなどというと、科学者の中にはそんな非科学的なという人も多いだろうが、チョウが人になつくことはないと断定することが科学的なのだろうか。
 科学とは仮説を立てて実験をし証明するのが正当法である。たぶんそのキアゲハはその広場をテリトリーの場として利用していたのだとぽくは思う。そういったときのキアゲハは見通しのきく枝などによくとまる。キアゲハはその人を木の枝と同じように利用したのであろう。これはその場所に何か同じぐらいの高さの物を置くことで証明できるだろう。もし、その人を自然物としてチョウが認識したのであれば、それはなついたのだといってもあながち間違えてない気もする。
 写真家にとって科学的な考えとは、自分の見たこと撮影したことは、それがすべて正しいと思い込まないことだと思う。写真家は自然観察者としての意識を十分にもつことも大切である。しかし文献や一般常識がすべて正しいと思い込まないことも重要である。写真家は自分が経験し、撮影したことから物事を考えることが最も重要なことだと思う。写された写真から独断で仮説を立てる。それがもし新発見だと思ったら、もっと観察と撮影を続ければよいのである。そうすればさらなる発見をすることもあるし、それが単なる偶然であるかもおのずと分かってくる。撮影を続けることで、自然を撮影する写真家は科学的な見方のほとんどを自然から学べるのである。
 昨今は自然写真家も、一般の写真家同様に表現者であることも大切だと思うようになった。写された事実が一般的な事柄であっても、見る人にインパクトを与え、自然とは何だろうと考えさせたりすることも意義あることである。様々な生き物が様々な世界を形作っていて、決して地球は人間だけのものではないことを伝えるような写真が撮れたらぼくはうれしいし、たとえ科学に直接役に立たなくても、自然をあるがままに撮影しようという写真家がたくさん出てくることも大切だと思うのである。


写真は草原でテリトリーを張るキアゲハのオス。2005年撮影のもの。E-300 50-200 

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