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「原爆の父」オッペンハイマーの足跡と核の歴史をたどってみた

  • 2024年3月29日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

「原爆の父」オッペンハイマーの足跡と核の歴史をたどってみた

 クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』で「原爆の父」が注目を集めている。マンハッタン計画で核兵器を作り上げたニューメキシコ州。核爆弾の恐怖が実証されたネバダ州の核実験場。そして、自身に取り憑いていた悪魔をようやく鎮めることができた人里離れたカリブ海のビーチまで、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーの足跡をたどってみよう。

ロスアラモス:原爆誕生の地

 最初の原子爆弾は、開発者たちに「ガジェット」と呼ばれていた。それが起爆されたのは「トリニティ」と呼ばれるニューメキシコ州の砂漠だったが、誕生したのはそこから200キロ近く北、標高2000メートルを超えるロスアラモスという活気のない高原の町だった。10代のころをニューメキシコ州で過ごしたこともあるオッペンハイマーは、ロスアラモスの元男子校を開発の拠点として利用した。

 現在、史上初の原子爆弾を生みだしたマンハッタン計画の拠点は、国立歴史公園に指定されている。その姿は当時からほとんど変わっていない。

 木陰に包まれた「バスタブ街」を歩いてみる。一風変わった名前は、当時珍しかったバスタブつきの家が、この付近に集まっていたからだ。

 通りに面したこぢんまりとした平屋建てが、オッペンハイマーが妻のキティと2人の子どもとともに過ごした家だ。通りの端まで来ると、等身大の2体の銅像に肩をぶつけそうになった。よく知られたつば広帽姿のオッペンハイマーが、計画の軍事責任者であるレスリー・グローブス将軍と話している。

 その先のフラー・ロッジは、かつて学校の集会場だったが、今はアートギャラリーとコミュニティセンターになっている。中に入ると、映画『オッペンハイマー』の印象的な一場面に入り込むことになる。

 広島への爆弾投下後、オッペンハイマーは石造りの暖炉の前に立ち、ロスアラモスのスタッフに対して勝利のスピーチを行った。だが、勝利の言葉を口にしながら、内心では、それがもたらした惨劇が目に浮かんでいた。その場面の舞台となったのが、この部屋だ。

 同じ暖炉の前に立ってみる。松の壁と木組みの天井に囲まれた広い部屋を眺めれば、この場所にいたオッペンハイマーが、3年という短い時間で成し遂げたことに心を動かしつつ、それが人類史に与えた衝撃に青ざめていた姿を想像するのは難しいことではない。

トリニティ:最初の原爆の爆心地

 最初の原爆の爆心地となったトリニティは、今も年間を通じて、ニューメキシコ州ホワイトサンズ・ミサイル実験場として使われている。だが、年に2日だけ(通常は4月の第1土曜日と10月の第3土曜日)、米陸軍がトリニティ・オープンハウスというイベントを開催している(米陸軍が「不測の事態」と呼ぶ事情により、2024年4月のオープンハウスは中止となっている)。

 イベントが行われる日には、アラスカからフロリダまでのナンバーをつけた車が、ホワイトサンズのスタリオンゲートに列をなす。そこから27キロほど南に走ると、円形に張られた金網が見えてくる。オッペンハイマーのガジェットが原子力時代の扉を開いた場所だ。

 めったに使われることのない駐車場に車を停め、狭い入口を通って中に入り、円の中心にある真っ黒いモニュメントに近づく。何も言われなくても、厳粛な雰囲気を感じざるをえない。

次ページ:今も残る核実験の痕跡

 木一本生えていない野ざらしの場所は、まるで天然のオーブンで、春でも暑い。かつてスペインの征服者たちは、ここを「死者の旅」と呼んだ。しかし、1945年7月16日午前5時30分ちょうどの暑さは比較にならない。その瞬間、太陽の表面温度の半分ほどに達する灼熱の火の玉があたりを焦土と化した。

 ガジェットが設置された30メートルの塔は跡形もなくなったが、そのクレーターは今も残されている。広く、驚くほど浅い、皿のようなくぼみだ。一番深いところでも、砂漠の地面がえぐられたのは3メートルほど。30メートルの空気のクッションがあったからだ。

 ガイドはたくさんの観光客に、「地面から何かを持ち出すことは、一切禁止されています」と言う。

 その「何か」というのは、爆弾の高熱でできたガラス質の人工鉱物「トリニタイト」だ。

 この日の主役はトリニティだが、興味のある人は、そこからバスに乗って、爆心地から3キロほどの場所にあるシュミット邸という小さな小屋に行ってみるといいだろう。もともとは食堂だった場所だが、オッペンハイマーはここでガジェットの最後の組み立てを監督した。

 むき出しの壁と磨かれた床を持つこの空き家は、やり手不動産業者の修繕を待つ廃屋のように穏やかに見える。しかし、実験の数日前、まさにこの場所で、科学者の一団が慎重にガジェットを組み立てていた。ソフトボール大のプルトニウムのまわりに32個の小さな爆弾が取りつけられた球体だ。

 32個の爆弾はすべて同時に点火され、文字どおり、地獄の業火は解き放たれた。

ネバダ核実験場

 米国政府は戦後も核実験を続け、その威力はますます大きくなっていった。実験は当初、太平洋で行われたが、のちにネバダ核実験場で行われるようになった。

 ネバダ核実験場は、ラスベガスの北西約100キロのところにある。ラスベガスは今でこそギャンブルの街だが、当時は僻地だった(ラスベガスの繁華街にある「ビニオンズ・ギャンブリングホール」の26階では、かつて観光客たちが、核実験によるビルの揺れで、「アトミック・カクテル」が揺れるのを眺めていた。今も、このレストランで食事をすることができる)。

 ネバダ核実験場では、30年以上にわたって、1000を超えるガジェットの子孫が爆発をくり返してきた。オッペンハイマーがここに足を踏み入れた形跡はないが、核兵器の悪夢を象徴する場所として、オッペンハイマーの物語からこの場所は外せない。

「戦争を重ねる世界の新たな武器に原子爆弾が加わることになれば、人類がロスアラモスとヒロシマの名前を呪いとする時代が来るだろう」。1945年、オッペンハイマーはそう言った。

「基本的に、オッペンハイマーはマンハッタン計画後の核実験に反対していました」。ラスベガスの核実験博物館の副館長兼キュレーターであるジョセフ・ケント氏はそう話す。「マンハッタン計画は必要だと考えていましたが、さらに破壊力の強い水爆の研究が始まったことには、耐えられなかったのです」

次ページ:晩年を過ごしたビーチへ

 博物館は、ラスベガスの目抜き通りであるラスベガス・ストリップから数ブロック離れたところにある。25周年を迎えた博物館のロビーに立つと、出迎えてくれるのは、丸く巨大な「ファットマン」の模型だ。ニューメキシコ州で見たガジェットと同じタイプの核爆弾で、1945年に作られた。

 核実験博物館はスミソニアン系列の博物館で、主にネバダ核実験場(正式名称は「ネバダ国家安全保障施設」)のビジターセンター的な役割を果たしている。博物館と核実験場の関係は現在も続いており、月に一度、50人程度の歴史好き向けに、バスで行く無料の8時間ツアーが開催されている。

 まず、1時間ほどかけて国道95号線を北上する。その道中、なぜこの場所に実験場が作られたのかを聞くことができる。広く平らな谷がたくさんあるので、爆発が山地によってさえぎられ、関係者以外の目にとまることがないからだ。

 ツアーの一番の目玉は、セダン・クレーターだ。深さ約90メートル、幅約360メートルほどのクレーターは、運河や港湾の建設に核爆弾を安全に使えるかどうかを確かめるため、104キロトンの爆弾を爆発させて作ったものだ。その答えは、「できない」だったようだ。

 のちほど、セダン・クレーターで撮った集合写真を送ってもらえるが、記念品はそれだけだ。ネバダ核実験場ツアーでは、岩石のサンプルを持ち帰ったり、カメラを持ち込んだりすることはできない。

米領バージン諸島セントジョン島「オッペンハイマー・ビーチ」

 米領バージン諸島セントジョン島のホークスネスト湾の東岸、広い砂浜には、白い平らな建物が立っている。これはコミュニティセンターだが、数年前にハリケーンに流されるまで、小さな木造の小屋があった。1950年代に建てられたもので、ときどき物静かな男が妻や家族を連れてやってきては、ひっそりと使っていた。

 そこは、晩年のオッペンハイマーが、自分の手で作り上げた世界の圧迫から逃れる場所だった。ホークスネスト湾は、オッペンハイマーと妻の遺灰がまかれた場所でもある。

 現在、この場所は、地元の人に「オッペンハイマー・ビーチ」と呼ばれている。

 オッペンハイマーはこの砂浜を歩きながら、政治家たちから遠く離れた場所で、日々伝えられる核軍拡競争のない世界を願ったのだろう。政治家たちは、オッペンハイマーの才能を爆弾作りに使ったあげく、彼がそれを後悔する発言をしてからは、攻撃の矛先を向けてきたとノーランの映画は描いている。

 セントジョンの歴史家であるデビッド・ナイト氏の両親は、オッペンハイマーが不在のときに家の管理を任されていたという。ナイト氏はBBCの取材に対して、「この島では、だれもオッペンハイマーに嫌がらせをしなかったし、彼が何者だったのかをだれも知らず、気にすることもありませんでした」と言った。

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