「あと少しで死ぬ時も、夜ご飯の事を考えているのだろうか」マンスーン(ライター/ディレクター)

  • 2025年4月25日
  • CREA WEB

編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回はオモコロのライター/ディレクターで初の単著『無職、川、ブックオフ』が話題のマンスーンさん。30歳までの無職生活を経て突如やってきた就職&結婚。加速していく「普通の人生」がしっくりこないのはなぜなのか?

 目標がない。進むべき方向を指し示してくれるような。心の闇をそっと包み込んでくれるような。動かなくなった脚を一歩だけ進ませてくれるような。そんな目標がない。

 理想もない。グチャグチャになって。靄。見えない。窓。開かない。夢。見れない。暑いのか寒いのか分からずに薄いTシャツと厚いダウンを重ねて中途半端。バランスを取るだけでは見出せないから。真ん中であり続けようとしてる。どっちつかずの最悪で最高。

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 高校も大学も自分が入れるところという理由だけで選んだ。将来何がしたいのか分からず留年もして24歳で大学を卒業して無職になった。何もせずどこにも行けず、自分の地図にあったのは実家と土手とブックオフだけで、何がすり減っているのかも分からないから、すり減る感覚だけが部屋に充満していた。川底で少しずつ削られて丸くなっていく石のように生きていた。やりたいことも、やられたいことも思いつかず。どうにかなるのは、どうにかした人だけなのですね。

 バイトもろくにしないまま、そんな無職生活を6年程して気がつけば30歳。気がつかなくても30歳。実家住まい。親に将来のことを聞かれても「タハハ……」なんて誤魔化せなくなっていたら急に就職が決まった。言葉の意味すら忘れるほどに遠くにあった就職。

 全てが新鮮だった。例えば朝起きて満員電車に乗って会社に行くこと。スーツを着た人たちが作り上げる大きな流れに身を任せて車両に詰め込まれる。触ったら弾けてしまいそうなほど張り詰めた空気。線路と車輪が擦れる音。遅れを謝るアナウンス。顔の前にスマホを持ってきてTwitterを眺める。満員電車や電車の遅延に文句をツイートする人たちの気持ちが自分の中にも芽生えた。大きくて四角い箱にぎゅうぎゅうになって。みちっみちっ……という音が聞こえる。まるでひとつの肉になったみたい。しかしそれだけじゃなかった。嫌だけど少し安心もしていた。やっと社会の一部として認められた気がした。つらそうな顔をした人たちのなかで、僕もつらそうな顔をしてみる。同じ。同じだ。同じって楽だ。

 帰りの電車は違う静けさ。車内には疲労と少しの自由が漂っている。つり革を握って目を閉じる。ちょっとだけ明日のことを考える。無職の頃にはなかった明日がある。それは時間としての明日ではない。自分が想像できる範囲にある光としての明日だ。真っ暗だった頭の中に明日も仕事をしている姿を思い浮かべる。目を開ける。全員がスマホを見ている。ちょっと変な顔したって誰も気にしないだろう。他人。だけれど他人じゃないみたい。同じ方向に高速で運ばれている人たちと一緒に。途中の駅でドアが開く。外の匂いが風とともに入ってくる。家には吹かない風。窓ガラスに映る自分は少しいい顔をしていた。

 あとは電話対応にすごく緊張すること。最初は電話なんてできるだろうと思っていたのだが、いざ出てみると緊張してしまい、相手の会社名や名前がぜんぜん頭に入ってこなかった。もちろん聞き直すなんてことはできず、電話を繋ぐ担当者の同僚に「あ〜なんかカタカナの感じの会社名です」みたいに曖昧に覚えた会社名を伝えていた。恥ずかしい。電話一つ取れない自分。それからどんどん電話が嫌になり、電話が鳴った瞬間、体を前のめりにしてパソコンのディスプレイを凝視して「今すごい集中してるので!」というオーラを出してなんとか電話に出ることから逃れていた。

 それでも電話に出なければいけない時はあるので、自分なりの攻略法を編み出していった。まず電話している自分を俯瞰して、電話をしているのは自分ではなく、電話をしている別の自分を操作している他人だとイメージする。そうすることである程度落ち着くことができる。この方法は電話だけではなく、仕事上のいろいろな場面で使っていたと思う。例えば取引先の会社に行ってプレゼンをしなくてはいけない時も、一旦自分を架空のサラリーマンだと思い込んでから喋ることであまり緊張しなかった。どんなに失敗しても、その架空のサラリーマンのせいなので自分は傷つかなかった。よくないかもしれない。傷つかない方法ばかりうまくなっていくことが正しいのかは分からない。でもそのズルさも自分なのだと思っている。

働き始めて3年。33歳、結婚をした…

 そうやって自分なりのやり方を見つけ出して、どんなにお世話になってなくても「お世話になっております」のメールがスラスラと打てるようになった。取引先との会議で先方に分からないことを聞かれても焦らずに「一旦持ち帰らせていただきます」なんて澄ました顔で言えるようになった。今まで実家の部屋でずっとパソコンのディスプレイだけを見ていた自分が仕事をしている。誰かと。どこかで。朝起きて。会社に行って。仕事してますなんて雰囲気で。仕事に慣れてきた頃、帰り道にコンビニでビールを買って飲みながら歩いてみた。仕事終わりのビールは美味しいなんて言うけど、ビールはいつだって美味しい。変わったとこもある。変わらないとこもある。曖昧なまま流されて。川。

 働き始めてから3年。33歳。結婚をした。プロポーズは無かった。就職してからお付き合いをし始めて同棲をしていた彼女の方から「結婚しないの?」と言われて「しましょう……」とモゴモゴしながら返した。情けない返事はどこにも届かずに外を走る救急車の音にかき消されて床に落ちた。コロンッ……。シーン……。言い切れない。言い切る力がほしい。言い切れること。それは「ごはん大盛りでお願いします」だけ。そんな曖昧な結婚の始まりだった。

 それから、お互いの両親への挨拶、婚姻届の提出、結婚指輪の購入と事態はスルスルと進んでいき気がつけば夫婦になっていた。大きく何かが変わったわけではないけど、ゆっくりと気づいていった。記念日が一つ増えた。サブスクのファミリープランに入った。左手の薬指の違和感に手がムズムズした。選挙の案内が1つの封筒で2枚届くようになった。ちなみに結婚式はしなかった。お互いそこまで結婚式の必要性を重視していなかったし、ご祝儀の3万円をもらう程の自信もなかった。3万円。寿司とか食べれる。飛行機とか乗れる。だから。

 言い方が正しいとは思わないが、あえて言わせてもらうと……普通。普通すぎる。全ての言葉を使っても言い表せない密度の濃い普通の空気が充満している。窓を開けたくなる。毎日実家の部屋と土手にいただけなのに。就職をして。恋をして。結婚をして。毎日ご飯が美味しいとか、朝がつらいとか、土日って一瞬だよねとか言ってる。言わせていただいている。何も目標がない自分が。ゆらゆらと漂っているだけだった自分が。受動的な自分が。

 もちろん、今の時代は一般企業に就職することや結婚することだけが普通ではない。多種多様な生き方が模索できる素晴らしい時代だ。しかしあまりに何もなかった僕にとっては就職も結婚も遥か遠くの出来事だと思っていたし、決して仕事にも結婚にも不満があるわけではない。自由に昼寝ができる会社で働いているし、僕の趣味であるハードオフ・ブックオフ巡りも嫌な顔をせずについてきてくれる妻もいる。

 ただ、空腹の時にいきなり重いものを食べると胃がびっくりしてしまうように、30歳からの劇的な人生の変化。心がまだロード中なのに意識だけが先に進んでいるような感じがしていたのも確かだった。

 普通と安心を手に入れたことで、今度は普通じゃなさへの憧れと不安が生まれる。とても贅沢なことだとは分かっているけれど。それでも思ってしまう。思うことをやめられないでいる。毎日の仕事のなかで。毎日の生活の中で。トイレの中で。布団の中で。当たり前のように過ぎていく時間が不安になってしまう。

 それは毎日のように部屋でゴロゴロしていた無職時代に存在した自由な時間。社会からはみ出していたあの無限にも思えた時間を過ごしたからこそ、今の毎日が余計に有限で、余計に早く感じてしまうのかもしれない。僕は知っているのだ。何もしない日々の楽しさも。お金がない事の怖さも。全て。

見えない未来を「しいたけ占い」にゆだねる日々…

 そんな不安を胸のどこかに抱えたまま、今の会社に就職して9年目になった。仕事は楽しいが相変わらず目標がないことに変わりはない。変われない。変化を恐れてばかりで毎日コンビニで同じお茶を買っているし。少しでも自分を変えたくて毎週月曜日は仕事中に「しいたけ占い」を見ている。

 今週はどうやって過ごせばいいのか。どこに向かえばいいのかを尋ねる。「あなたが正しいと思う方法で自由にやってみよう」みたいな文章を見ては心のなかで深い頷きをする。そしてページを閉じた瞬間に忘れる。自由にやってみる事の難しさ。自由にやってみる事の恥ずかしさ。自由にやってみる事の虚しさ。何でもできる。はずだけれど。働いてある程度の貯金もあるし欲しいものは大抵は買える。仕事も比較的自由な時間が多くてどこにでも行ける。なのに。それなのに。

 何を買っても積まれていく。埃。どこに行っても忘れてしまう。記憶。何を食べてもカメラロールの面積を増やすだけ。記録。そんな日々で。未だに自由が分からず、また横になってスマホでTwitterを見ている。おすすめ欄の意味のない情報。スクロール。100メートル。過剰な表現のオススメグルメばかりで、この世の全ての食物がうますぎてヤバいのではないかとすら思えてくる。家。会社。家。会社。家。会社。あとはどこに向かえばいいのだろう。占いが教えてくれるのは曖昧な自由と曖昧な言葉の羅列だけだ。すぐに弾ける泡みたい。でも、それでも見てしまう。灯台の灯りが必要です。

 どうなりたいか。何をしたいか。その日の夜ご飯の事しか真剣に考えられない僕にとって、果てしない未来について想像する事ができない。世界に対して不満を持つことすらめったにない。今。だけ。それか今日の夜まで。だけ。どんな一日も次の日の朝にはリセットされてまた新しいけど同じような毎日を過ごしている感覚。毎日が続いているような気がしない。

 日々の連なりが人生ならば、この人生はいったい何なのだろう。あと少しで死ぬ時も夜ご飯の事を考えているのだろうか。全部大丈夫にするから全部大丈夫にしてほしい。本当に。

 ただ最近は、目標がないことも悪くないと感じているし、結婚についても時間が経ってやっと意味みたいなものに気が付き始めたと思う。結局は、そんな風に生きてこれたってだけだ。分からないものを分からないままにして、今ここにいるから。瞬きと呼吸と、朝に妻のスマホから流れるアラームだけがそう思わせてくれる。もしかしたら目標を持つともっと不安になるかもしれないから。仕事をして家に帰ってご飯を作って食べる。普通だと思える。それだけの安心と顔見知りの不安を持って眠る。変わらないで。自分。変わるかも。自分。せめぎ合って。そうやって咲いた花に水をあげつづけていく。

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 目標がない。進むべき方向を指し示してくれるような。心の闇をそっと包み込んでくれるような。動かなくなった脚を一歩だけ進ませてくれるような。そんな目標がない。

 ノイズキャンセリングじゃ消せない心臓と電車の音。ふわふわ頭の中のぼやけた言葉。また同じ行動で夜。決まりきった睡眠。寝てるときだけが自由みたいで。また会社に行く。朝。道に落ちていた折り畳み傘のカバーが帰りも同じ場所に落ちていた。目印みたいで嬉しかった。

 今日も、夜ご飯の事を考えながら生きている。たまに明日の分も。

マンスーン

1987年東京都生まれ。ライター/ディレクター。大学卒業後、6年間の無職生活を経て、WEBメディア「オモコロ」を運営する株式会社バーグハンバーグバーグに入社。話題になったPRコンテンツの制作ディレクションや役に立たない工作記事を執筆している。
X @mansooon

文=マンスーン

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