水俣病は、化学工業を営んでいたチッソが、1930年代から同社水俣工場でメチル水銀を含む排水を水俣湾に流したことに始まる。水俣湾では1950年代から貝類が死んだり、魚が浮き上がったりするといった異変が起きた。その後、1956年に熊本大学の研究グループが、運動障害などの症状を訴えた患者について、チッソ水俣工場の排水が原因であると発表し、水俣病の患者発生が初めて公表された。1959年には同大学を中心とする研究メンバーが、水俣病は水俣湾の魚介類に含まれる有機(メチル)水銀による中毒であると発表した。
高濃度のメチル水銀は毒性が強く、人体の中枢神経や脳細胞に作用する。水俣病患者は、手足のしびれや言語障害、体中がけいれんするといった症状に苦しめられたが、水俣病の原因が公式に特定されるのには時間がかかった。1968年になって政府は、水俣病はチッソ水俣工場におけるアセトアルデヒドの製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であるとする公式見解を発表し、水俣病はようやく公害病として正式に認定された。
これに伴い、水俣病患者の一部は翌1969年、チッソを相手に損害賠償を請求する第1次民事訴訟を起こした。その結果、1973年に患者側勝訴の判決があり、1980年にはチッソだけでなく国と熊本県にも国家賠償を求めた第3次民事訴訟が患者側から提訴され、1993年に行政の責任が熊本地方裁判所によって認められた。こうした流れを受けて、政府も水俣病患者の枠を広げるといった和解方針を打ち出し、1996年に水俣病患者とチッソとの間で、政府解決案による和解が成立した。また、関西に移住した水俣病の未認定患者45人が国と熊本県に賠償を求めた「水俣病関西訴訟上告審」では、国や県の行政責任を認める判決が2004年10月に最高裁で下された。
このように、水俣病は発生から半世紀もの時間をかけて、一応の決着をみた。しかし、最高裁判決が国よりも緩やかな基準を示したことで、水俣病の患者認定について行政と司法の二重基準が生じ、公害健康被害補償法に基づく認定申請の数が急増したほか、認定をめぐる訴訟も起きた。政府は政治解決の対象から漏れた人を救済するため、医療費や療養手当などの給付対象を拡大した。そして、2009年の第171回国会で「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法(水俣病特別措置法)」が成立。同法に基づく被害者への給付申請が、2010年5月から開始された。給付の対象となるのは、水俣湾や阿賀野川でメチル水銀に汚染された魚などを多く食べて、手足のしびれなどの症状がある人だ。一時金や療養費、療養手当が給付される。
水俣病はチッソの企業城下町であったことから、水俣病患者とチッソが対立するなど、地域社会を分裂させた。このため、和解後も患者・市民・企業・行政が一体となって、地域社会再生のための努力が続けられている。