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東北から能登へ この場所で生きると決めたからこそ「編集長対談」

  • 2024年3月11日
  • コロカル

2024年の元日、能登半島地震が発生。多くの人にとって忘れることのできない日がまた増えてしまった。「自分たちに何かできることはないのか」と、今も歯がゆさを感じている人も多いかもしれない。

コロカル編集長・山尾信一もそのひとりで、被災地の情報を集めているなかで、SNSのタイムラインで目に止まったのは、『Yahoo! JAPAN SDGs』編集長の長谷川琢也さんのあるツイートだった。

東日本大震災から13年——われわれはどんな教訓を得て、どのように受け止め、能登半島も含むこれからにどう生かせばいいのだろうか。はせたくこと、長谷川琢也さんとコロカル編集長・山尾が「復興」を考える。

災害時に私たちができることと東日本大震災から得た教訓

2011年3月11日から13年。新潟県中越地震(2004年)、熊本地震(2016年)、北海道胆振東部地震(2018年)と近年大きな災害が日本列島を襲った。

東日本大震災を機に、復興の一環として「フィッシャーマン・ジャパン」を立ち上げた、はせたくさんはヤフー(当時)の社員ながら、石巻と東京で二拠点生活をしながら東日本大震災以降、10数年にわたり復興の軌跡を目の当たりにしてきた。

2024年1月4日。能登半島地震の3日後に「何もできなくて悔しい。ざわざわしっぱなし。」とXに投稿し、その歯がゆさを綴った。

震災のたびに考える自分たちの「役割」

山尾: 年明けの能登半島地震では、奥能登地域を中心に北陸の各地で甚大な被害が発生しました。私たちもメディアとして、あるいは個人として何かしたいけど、何をすればいいのかわからなくて歯がゆい気持ちになった人も多いと思います。私もまさにそのひとりで、そんなとき、はせたくさんの投稿を見て、同じメディアの人間としても、個人としても、すごく共感しました。

X投稿のキャプチャ

2024年1月4日はせたくさんが歯がゆい気持ちをXに投稿した。

はせたく: あの投稿は、社会活動家で、「防災ガール」の発起人でもある田中美咲さんの投稿に対するコメントでした。田中さんとは東北で復興活動をやっていたという共通点もあり、これまで東北に関わってきた人同士、自分にもきっとできることはあるけど、みんな共通して歯がゆい気持ちがあったんだと思います。

山尾: 投稿されたのは、震災から3日後の1月4日でしたね。私も2011年3月の東日本大震災のとき、毎日新聞社で「希望新聞<特別版>」という避難所に届ける支援新聞を創刊したことがありました。そんな経験もあり、今回の能登半島地震でも、何かできることがあるのではないか……、この思いをどこにどうぶつけたらいいのか、すごく困っていたときに「同じ気持ちを抱えている人がいる」と、少し救われた気持ちでした。

希望新聞<特別版>

東日本大震災当時に山尾が発起人として創刊に携わった「希望新聞<特別版>」。

はせたく: 震災後、いろいろな報道がありましたが、何でもかんでもとにかく現地に行けばいいってことではないのは、これまでの震災復興に関わってきた人たちはわかっています。そういった「学び」は東日本大震災での教訓です。

本当に僕も吐きどころのない感情を、田中さんの投稿をきっかけにしないとなかなか言葉にできなくて。

山尾: コロカルとしても何か役に立てないかと……という気持ちがありました。石川県の馳浩知事の「能登には来ないで」「でも石川県には来て」というXの投稿が話題になりましたが、コロカルでも、石川県のアニメ作家・名取祐一郎さん(@natoriyuichiro)のイラストを使わせていただき、記事を公開しました。震災後少し時間が経ったタイミングで、どういう情報発信が正しいのか、悩んだところです。

石川県の馳浩知事のX投稿のキャプチャ

石川県の馳浩知事が1月17日に投稿したXの画面。

はせたく: 今でこそLINEヤフーの社員として、『Yahoo! JAPAN SDGs』の編集長をやらせてもらったり、ヤフー石巻復興ベースを設立したりして、現地の声を多くの人に届けることができていますが、東日本大震災当時は、そんなことも考えられる余裕はありませんでした。

今でも東北のいろいろな被災地に行くと、「あのとき何もできなかった」「どうすれば良かったんですか」ということを多くの人に聞かれますが、2011年当時の僕も同じで、若くて屈強なボランティアの子たちが、元気ハツラツと瓦礫の撤去をしたり、重機を動かせる人が活躍していたりするなかで、僕自身は炊き出しを手伝いに行っても料理はできないし、「あぁなんて自分は無力なんだ」と痛感しました。

東北で切ない時間を過ごしたこともありましたが、彼らにはできない「何か」が、自分が入り込める「隙間」が、あるんじゃないかと思って、僕は会社という組織を存分に利用しようと考えました。

お金もリソースもありますし、何より大きいことができる。義援金を集めるプロジェクトを進められたり、被災地と支援者の橋渡しになったり、個人では動けなくても組織を利用することはできると。

なので、個人ひとりでは何もできなくても、組織にいるからこそできることがあるはず、と言い続けています。

「フィッシャーマン・ジャパン」サイトのメインイメージ

2014年、はせたくさんが設立に携わったフィッシャーマン・ジャパン。

対談中の『Yahoo! JAPAN SDGs』編集長の長谷川琢也さんとコロカル編集長・山尾信一

復興に向けた「フォーマット」はできつつある

山尾: この10数年、東北の復興の軌跡を間近で見られてきたと思いますが、今回の能登半島地震の知らせを受けてどんなことを感じたのでしょう。

はせたく: 今回、僕は「呼ばれたら行こう」と思っていました。当時も今回も、歯がゆい気持ちは変わりませんが、とりあえず現場に急行するわけには行かないし、被災地に負担をかけずに、的確に動ける人はほかにもいる。その状況は、東日本大震災の復旧、復興を俯瞰して見てきたからきたからこそわかっていました。

長谷川琢也さんのX投稿キャプチャ

はせたくさんはFacebookに率直な想いを綴った。

山尾: 阪神・淡路大震災や東日本大震災などの経験から、復旧や復興への「フォーマット」もできあがりつつありますよね。

災害が発生したら、まずは人命救助の72時間に始まり、次いで、二次災害、避難・輸送などの交通、避難所の感染症・災害関連死、ライフラインの復旧、そして、近隣の観光への風評被害、震災遺構の保存など、時間を追って、対応すべきことや問題が変化していきます。

それぞれのタイミングで、誰がどんな役割を果たすべきなのか、これまでの災害から学びを得て、復興への道筋は見えやすくなっているように思えます。

はせたく: おっしゃる通り、確かに「フォーマット」は存在すると思います。供給する物資の内容や供給方法もそうですし、避難方法や避難所での過ごし方など……すごい量の「学び」がありました。

被災した経験のある人たちは、今でも真剣に避難訓練していますし、実際に東日本大震災後に余震が続いたときも、みなさん大声で近所の人たちと声をかけ合って協力し合っています。

山尾: 今回の能登半島地震でも、北陸4県や周辺自治体からの迅速かつスムーズな支援だけでなく、熊本市の水道局員が熊本から給水車で駆けつけたり、東北大学病院からは災害派遣医療チーム「DMAT」が派遣されたりもしていました。

被災地とそのほかの地域の連携が、すごく効率的に機能していた印象を受けました。

はせたく: 本当にその通りですね。ひとつひとつの災害が「点」ではなく「線」としてつながり、受け継がれています。

デジタルの力も大きかったと思います。SNSなど悪い側面が注目されてしまう場合もありますが、LINEが誕生したのは、2011年6月でしたが、そのきっかけは東日本大震災だそうです。

例えば、東日本大震災のときにHondaが被災地域に住む人たちや、被災地域へ向かう人たちのスムーズな移動を支援する目的で、震災翌日から通行実績情報を公開しましたが、その後、大地震や集中豪雨などが発生した際に、通行可能な道路をカーナビなどで確認できるサービスも登場しましたね。

対談中の長谷川さん

3.11の復興の是非——。復興の正しいカタチとは

数々の震災を乗り越えて、多くのナレッジが蓄積されていく一方で、被災地の目を背けたくなるような「震災の爪痕」を残すことの是非が、現在でも各被災エリアで問われている。

災害から得た経験をバラバラのままの「点」から「線」にして風化させないことは、今後も多くの人命を救うことにつながるのかもしれないが、それと同時に、被災者にとってその記憶を消せないものとして存在し続けてしまうこともまた事実だ。

「復興のシンボル」は励みになるのか

山尾: 2016年に起こった熊本地震では、美しい石垣が特徴の熊本城も大きな被害を受け、しばらくはその復旧状況が報道されていましたが、その後はどうでしょうか……。

今回の特集を企画するにあたって、コロカルの編集部内で打ち合わせをしているときに、「熊本城の復旧がどれくらい進んでいるか、知っている人も少ないよね」という話が出て、当事者ではない人たちにとって、その記憶が簡単に忘れられていることに気がつきました。

東日本大震災は被害を受けた地域が広範に渡っていたり、原発事故の影響や計画停電の実施などがあったりしたので、当事者意識を持つ人は多いとは思うんですが……。

はせたく: 東北にも陸前高田の「奇跡の一本松」をはじめ、多くの「震災遺構」や「復興のシンボル」というものが残されていますが、被災者にとっては災害をフラッシュバックさせてしまうきっかけになりますし、これまで同様、能登半島地震でもこれから議論されていくと思います。

何もなくなってしまったところって、結局、そこに何があったか全然わからなくなってしまうんですよ……。

「もう見たくないから潰してくれ」みたいな話がある一方で、風化されずに残されることで、「こんなに良くなった」って励みになっている人も多いはずです。

もし原爆ドームがショッピングモールになっていたら、われわれ日本人も、世界中の人たちもヒロシマを忘れてしまっていたかもしれない——。

山尾: ここで答えが出ることでもありませんが、ひとりひとりの意見を公平に汲み取れるわけではありませんね。

ただ、風化させないことで確実にナレッジは蓄積されていて、仕組みはできあがってきているなかで、結局それを動かしていくのは人です。記憶に残していくためにも、そのトリガーになるものは必要な気がしています。

こうしてメディアで発信していくことも、何かを考えるきっかけになればと思っています。

はせたく: いま、『Yahoo! JAPAN SDGs』では、人権や選挙、環境問題や地方創生などをテーマに取材を続けているんですが、震災復興とすごく共通点が多いと感じています。

詰まるところ、こういう難解なテーマってメディアでもなかなか読まれないんです。

今でこそ、ようやくハラスメントとかジェンダーの議論が活発になりましたが日本人ってなかなか「人権の話しようぜ」とか「政治についてどう思う?」って話にならないんですよね。アレルギーを起こすというか。

難しい話ばかりされると気が滅入るっていう意見もわかるんですが、災害の話も同じで、有事のときじゃないと議論されないんです。

なので、震災のこともSDGsのこともひとりでもこの記事を読んで、「気持ちが変わりました」「行動が変わりました」って人をつくれれば、それはメディアの価値だと思います。

タブレットを見ながら対談する2人

山尾: SDGsの視点では、震災からの復興についてどんな議論があるのでしょうか。

はせたく: 東日本大震災の復興の是非を問うつもりはありませんし、13年経ってもまだ答えが見つかっていないことを前提にお話ししますと、「グリーン復興」や「SDGs復興」という言葉が使われています。

東北の海岸線には、いま数キロにわたってコンクリートの防潮堤が完成しています。

現時点で「これが正しい」と言えることはないんですが事実として、海の中の環境はかなり変わってしまいました。海と、川や山の境目がさえぎられ、海水と淡水がグラデーションになる汽水域がなくなってしまったわけですから、生態系に影響がないとは言えないでしょう。

また、「森の防潮堤」についても諸説あります。これまで、海岸線には成長が早くて潮風やヤセ地に強いクロマツやアカマツが防災林として、整備されてきましたが、一方で、土壌保持力が弱く、津波ではその多くが流され、流木が二次災害をもたらしたといわれています。

「森の防潮堤」は、しっかりと根を張り根こそぎ倒れることがない災害に強い植生を整備しようというものです。実際に津波被害があった場所でも、植林されたものではなく、その土地に昔からある広葉樹は流されずにも今も生き残っています。

山尾: 10数年経ってようやくそうしたことが見えてくるわけですね。これから地球がどうなっていくか、また、その地域の人たちの意向を考えるとまだまだ議論の余地がありそうですね。

はせたく: 先ほど「復興のフォーマット」という話がありましたが、あくまでフォーマットであって、どの地域でも同じようにはいきません。今回被災した能登半島では、フォーマット通りにはいかない事情も出てきています。

輪島は観光資源がほとんどですし、被災前からだんだんと漁獲量が下がり、経済的にも地域ならではの事情を抱えています。人口が減少の一途のなか、復興によって経済を変えよう、という話ではありません。

半島の最北端の珠洲(すず)市には、当然おじいちゃん、おばあちゃんしかいないようなエリアもあったりするわけです。「ここはもうわしらしかおらんし、ここにお金をかけるのはもったいないからもっと違うことにお金を使ってくれ」とおっしゃっている人もいるほどです。

跡取りがいなくて、いまの現役世代がこのあと何年活躍できるかみたいな場所で、最適な復興とは何なのでしょうか——。いろんな情報やナレッジが蓄積されているからこそ、選択肢が増えてしまっているという言い方もできるかもしれません。

対談の様子

この国に生まれ育って生きることは、震災と向き合うこと

繰り返される震災を目の当たりにしてきた私たちは、今後起こりうる都市圏の災害に対する不安や、災害のたびに鬱屈した感情と向き合わなければならないのだろうか。

この日本で暮らしていくためのヒントは、意外にもローカルで暮らす人たちの生活のなかに隠れていた。

意外と簡単なことが復興の手助けに

山尾: 支援の仕方や、震災を語り継いでいくこと、そして、復興のあり方など話が多岐にわたりましたが、私たちは今後どうやって災害と向き合っていけばいいのでしょうか。

はせたく: 支援側の立場であれば、大切なことは「心が動く」かどうかということです。被災地に対して、「何かしたいけど何をしたらいいかわからない」「ボランティアに行って足手まといにならないかな」といろいろ考えてしまうとは思いますが、まずは自分の心が動くか耳を傾けてみるといいと思います。

山尾: まずは焦らずに自分の想いと向き合うこと、でしょうか……。

はせたく: あとはよく「私は何もできない」ってことを耳にするのですが絶対にそんなことはありません。ローカルはまず人手が少ないですし、とくにデジタル面においては力になれることが多いと思っています。

僕は「エクセルができれば大丈夫!」っていうようにしています。「私は何もできない」って思っている人でも自分が当たり前にやれていることが、実はローカルでは重宝されるというのはよくある話で、Zoomで人をつなげたり、Slackを開設したり、何かやれることはあるはずなのです。

山尾: なるほど! 目からウロコですね。エクセルできるだけでって言われたら、急に何かできることがあるかもって思いました。僕らが当たり前にやっていることが意外と復興の手助けになるかもしれないんですね。

はせたく: はい。東北のときはSNSの使い方をアドバイスしたらそれまでスマホすら持っていなかった人たちが、いつの間にかFacebookで牡蠣のプレゼントキャンペーンをやっていました。今では「はせたくさんはレスが遅い」って言われています(笑)。

山尾: たしかにそうした都市圏とローカルの違い、ローカルのポテンシャルとも言えることは、コロカルで全国を取材していて感じているところです。

対談中の山尾信一

自分が被災者になる可能性を考える

山尾: これだけ日本中で災害が起きている以上、いつか自分も当事者になるかもしれないと不安を抱えている人も多いと思います。

はせたく: その通りですね。いくら防災キットや備蓄品を揃えても拭いきれない不安はあると思います。

以前、SDGsの研修でデンマークに行ったとき、「日本人はなんでそんなところに住んでるの」って聞かれたんです。どういうことかというと、地理的な条件をもとにいろいろなデータを集めて、地球全体を俯瞰して見ると、日本の辺りは自然災害のアラートで真っ赤なんです。

そのときは何も答えられなかったんですが、東北の漁師さんたちの話を聞くと、不思議と納得感があったんです。

漁師の人はみな、生まれてから暮らしの一部に海があるんです。海が見えるところに家があって、海とともに育ち、海から生活の糧を得てきた。それがなくなるならもう漁師を辞めるしかないよね。だから「しょうがない」って言うんです。

山尾: よく青森に行くのですが、同じような話をよくします。冬は雪かきで一日が始まり、雪と向き合って生きていかなければならない。東京での暮らしと比較すると、大変だなって思うのですが、青森で暮らす人にとっては当たり前の覚悟なんですよね。

はせたく: つまり、そういう場所に生まれ育って、その土地で生きるって決めたんだったらそのためにできることを最大限にやろうよ、ということだと思います。だから最低限自分と周りの人の命だけは守れる準備をしているんです。

東京の人は持っていないけど、青森の人は、当たり前にスノーブーツを持っているし、スタッドレスタイヤを使っているし、雪への備えをちゃんとしている。

それと同じで、日本で暮らしている以上、いつ自分たちが被災するかもしれないという不安は、それ相応の備えと知識を当たり前のように、身につけておかなければならないんだと思います。

山尾: 数々の震災を経験し、その学びを活かす。まだまだ課題は多いかもしれませんが、この国で暮らすからこそ、忘れずにいることや考え続けることが大事ですね。

profile

長谷川琢也(はせたく)

はせがわ・たくや 1977年3月11日生まれ。 誕生日に東日本大震災が起こり、思うところあってヤフー石巻復興ベースを立ち上げ、宮城県石巻市に移り住む。 漁業を「カッコよくて、稼げて、革新的」な新3K産業に変えるため、石巻の漁業関係者とともに漁業集団フィッシャーマン・ジャパンを設立。これからの地球環境や持続可能性をテーマに豊かな未来のきっかけを届けるオンラインメディア『Yahoo! JAPAN SDGs』編集長も務める。

Web:Yahoo! JAPAN SDGs

profile

山尾信一

やまお・しんいち 1976年生まれ。リクルート『R25式モバイル』『WEB R25』副編集長、毎日新聞社にてデジタル・ローカルなどの部署を経て、株式会社プレパラートを設立。デジタルメディアやコミュニケーションデザインなどを行う。『コロカル』編集部では地方自治体のオウンドメディアの立ち上げ等を担当し、2023年10月に3代目編集長に就任。毎日新聞社在籍中に3.11を経験、避難所に届ける東北復興支援『希望新聞<特別版>』を発起人として創刊した。

Web:コロカル

writer profile

Takuryu Yamada

山田卓立

やまだ・たくりゅう●エディター/ライター。1986年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。海よりも山派。旅雑誌、ネイチャーグラフ誌、メンズライフスタイルメディアを経て、フリーランスに。現在はキャンプ、登山、落語、塊根植物に夢中。

credit

photographer:中島慶子(マガジンハウス)

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