日本でいつ稲作が始められたのかについては、これまでさまざまな説が出されてきた。定説になっていたのは、弥生時代の初めに水稲が大陸から伝わったというものだったが、最近になって、縄文時代末期に焼畑栽培のような陸稲が伝わったのではないかという説が有力視されるようになった。いずれにしても、わが国で稲作が本格的に、広範に営まれるようになったのは、弥生時代に水稲技術が大陸から伝えられてからである。
4〜6世紀の古墳時代には、灌漑による稲作が普及し、さらに奈良時代から平安時代にかけては、栽培方法が直蒔きから田植えに、稲刈りも石包丁で穂先を刈る方法から、鉄の鎌による根刈りに変わったと考えられている。
江戸時代になると、新田開発が幕府によって推奨され、稲作の作付面積も飛躍的に伸びていった。虫害対策のために水面に鯨油をまく方法が考案され、また油粕、干鰯などを肥料に使うようになったのも、品種が増えていったのもこの時代からであった。しかし、本来、モンスーン地帯の温暖多湿地域を原産とする稲は、東北地方のような寒い地域では、冷害が発生し、たびたび飢饉に襲われた。
明治時代以降になると、寒さに強い稲作をめざして品種改良が行われるようになる。たとえば、コシヒカリやササニシキなどの品種の原点となった「亀の尾」は、明治時代の後半に山形県の阿部亀冶によって冷害に強い品種として開発された。昭和になると1944年に新潟の研究者が稲の代表的な病気だったイモチ病に強いコシヒカリを開発、コシヒカリはさらに味にも改良を加え、いまでは日本の代表的な稲の品種に成長している。いま、全国にササニシキ、ひとめぼれ、あきたこまち、キヌヒカリ、ヒノヒカリなど、約500品種の稲が開発されているといわれる。
水田稲作は、灌漑用水の管理、灌漑水路の建設や、繁忙期の労働力確保など、共同作業が必要となるため、稲作を基盤とした村落社会が形成され、そこに日本的な「和」の精神を持った共同体が生まれたとされる。また、稲作をベースにとした農耕儀礼も神道などの宗教に取り入れられるなど、社会、文化、宗教などの分野に大きな影響を与えている。
また、環境面においても、水田稲作は水田とそのまわりの用水などの環境に適応した日本在来の生き物たちに、産卵、羽化、採餌、成長の場を提供してきた。藻類、タニシ、ドジョウ、メダカ、カエル、ホタル、トンボ、鳥類までつながる生態系は、水田によって保持されてきたといえる。しかし、近年、コンクリートのU字溝の用水路、農薬の散布などによって、生き物の生息空間としての水田が危機に晒されている。