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空腹でふらつきながらもたどり着いた「キッチン常夜灯」。重い木の扉を開くと、濃厚な香りに襲われて…/小説「キッチン常夜灯」第4回【全6回】

  • 2024年2月19日
  • Walkerplus

「キッチン常夜灯」(長月天音/KADOKAWA)第4回【全6回】

チェーン系レストラン「ファミリーグリル・シリウス」の浅草にある店舗で店長を務める南雲みもざは、ある冬の日、住んでいるマンションで火事に遭い、部屋が水浸しになる。住んでいるところに困っていると会社の倉庫の1室を借りられることになるが、勝手の違う生活に疲労はさらに溜まっていく。そんな時、みもざが訪れたのは路地裏で夜から朝にかけて営業するレストラン「キッチン常夜灯」だった。寡黙なシェフが作るのは疲れた心を癒してくれる特別な料理の数々で――。「キッチン常夜灯」は、美味しい料理とともに、明日への活力をくれる心温まる物語。
※2023年10月7日掲載、ダ・ヴィンチWebの転載記事です。
白山通りを渡り、手前の路地に入った。

緩い坂道に沿って立派なマンションが立ち並んでいた。倉庫のある1本奥の通りとは雰囲気が違う。あちらはマンションよりもオフィスビルが多い。

すぐ横には東京ドームや遊園地があるというのに、こんな場所に住んでいる人がいるということに改めて驚いた。仮の宿りとはいえ、ここから仕事に通う私まで何やら誇らしい気分になってしまう。

しかし、路地を進むうちにだんだん不安になってきた。周囲はマンションの立ち並ぶ閑静な住宅地。すでに時刻は12時を回っている。さすがに出歩いている人もおらず、街はひっそりと寝静まっていた。

これほど都心の夜が静かだとは思わなかった。先ほどまでの高揚感はいつの間にか心細さに変わり、どこで引き返そうかと、踏み出す足もためらいがちになっていた。

「あっ」

萎えかけていた気持ちに再び希望が灯った。1区画先の建物の軒下に、淡く光を放つものがあったのだ。私は明かりを目指して、空腹でふらつく足を前へと進めた。

「本当にあった……」

夜道にぽっかりと浮かぶ、行燈のようなシンプルな看板。そこには「キッチン常夜灯」と黒い文字が影絵のように浮かんでいた。

ここが金田さんの言っていた洋食屋だろうか。

私は看板の周りをぐるりと2周して、まじまじと観察した。入ったとたん「ラストオーダーです」などと締め出されてはかなわない。営業時間を確認したかったが、看板には店名以外何も書かれていなかった。

店は古ぼけたマンションに入っていた。暗くてよくわからないけれど、下手をしたら昭和の時代に建てられたものではないだろうか。外壁はザラザラしたコンクリートで、ベランダの手すりは今時珍しい鉄柵だった。

店の入口は1階だが、半地下にでもなっているのか、路地に沿った窓はずいぶん低い位置にある。窓はすべてステンドグラスになっていて、色とりどりの淡い明かりを外に漏らしていた。

「きれい……」

思わずため息が漏れた。窓が低い位置にあるだけでなく、手前の生垣で半分ほど隠れてしまっているのがもったいない。その隠れ家的なところも魅力的で、入る前から期待に胸が高まった。

思い切ってバーの入口のような重厚な木の扉を開くと、カランカランと軽快なドアベルが鳴った。

その途端、濃厚な香りに襲われた。

「ファミリーグリル・シリウス」にもソースや肉の脂、バターの香りが染みついているが、それよりもずっと純度の高い「本物」の香りだ。明らかに素材がいいことを示している。

金田さんからコキールグラタンを食べたと聞いていたが、ここならば本当に本格的な洋食が食べられるかもしれない。

半信半疑だった私は反省しながら、思ったよりも暗い入口に目が慣れるのを待った。

予想どおりドアの内側に3段ほど降りる階段があり、その先に薄暗い通路が延びている。通路の照明は控えめで、棚に置かれたアンティーク調のランプのみ。板張りの床はしっかりとワックスがかけられ、艶々とした床板にランプの明かりが見事に映り込んでいる。

なに、この非日常感。

私はすっかり興奮して、くまなく回りを観察した。

「いらっしゃいませ」

廊下の奥から女性がひょっこり顔を出した。入口の雰囲気にすっかり押され気味だった私は、彼女の愛嬌のある笑顔にすっと肩の力が抜けた。

小柄でふくよか。いかにも美味しいものを毎日食べていますというように、頰も額もつやつやとして実に健康的である。

「お客様、当店は初めてですね?うふふ、入るのに勇気がいったでしょう」

人懐こく話しかけられたが、嫌な感じはまったくしなかった。

薄暗い通路はすぐに行き止まりとなり、曲がった先がホールだった。

心地よい照明は、真夜中を照らすにふさわしい温かみのある暖色系だ。

店内はさほど広くない。奥に向かって細長く、左手は外から見えたステンドグラスの窓が連なっていて、そこに二人掛けのテーブルがふたつ、右手は窓に背を向けるようにカウンター席が8席。だだっ広い私の勤務先に比べて、何とこぢんまりしていることだろう。これなら一目で店内が見渡せる。

この時間だからか、客はカウンターの一番奥に女性が一人で座っているだけだった。ぼんやり立ち尽くしていると、先ほどの女性が「どうぞ」とカウンターの真ん中の椅子を引いてくれた。

カウンターの内側はすぐに厨房で、コックコートの男性が「いらっしゃいませ」と小さく微笑んだ。さすがに初めての来店で、料理人の目の前に座る勇気はない。私は遠慮をして、通路に近い手前の席に座った。

その瞬間、直感した。ここは当たりだ。間違いなくいい店だ。

自分も飲食業に身を置き、趣味も外食となれば、自然と他人の店を見る目も厳しくなる。

まずは入る前の期待感。そして案内に出た女性の笑顔。こんな遅い時間に入っても嫌な顔ひとつしない。閉店間際の店にうっかり入ってしまい、針の筵に座るような思いを味わった経験はきっと誰にでもあるにちがいない。

さらに快適な室温と空間を満たす美味しそうな香り、しっくりくるカウンターの高さと座り心地のいい椅子。ゆっくりくつろいでほしいという店側の思いがはっきりと伝わってくる。

顔を上げると料理人と目が合った。もしかしたら、彼も初めての客が気になるのかもしれない。

真面目そうな人だ。白いコックコートよりも、パソコンに向かっているのが似合うように思うのは、細いシルバーフレームの眼鏡のせいか。とにかく繊細な印象である。

彼はすぐに視線を落とし、手元の作業に集中した。とはいえ、客は私の他に一人しかいないのだから、仕込みでもしているのかもしれない。

さりげなく料理人を観察していると、先ほどの女性が温かいおしぼりを持ってきた。

「どうぞ。今夜も冷えますね。温かいアルコールもありますけれど、いかがですか?」

温かいアルコール?

心が動いたけれど、こう腹ぺこで温かいアルコールなど摂取したらどうなってしまうかわからない。まずはお腹に何か入れようと、私はメニューに視線を落とした。

メニュー熟読も私の趣味のひとつだ。オーナーの熱い意気込みが込められたものから、いたってシンプルなものまで、その店の性格を表すわかりやすいツールである。

「常夜灯」のメニューは後者のほうで、定番の洋食メニューが前菜、スープ、サラダ、主菜、デザートと並んでいるものの、その数は極めて少ない。

その分、顔を上げると目の前の黒板にはぎっしりと手書きのメニューが並んでいた。

どれも美味しそうなビストロ料理ばかり。つまり彼はフレンチの料理人だ。真っ白なコックコート姿は様になっているし、コック帽を被らないのも、流行りのオーナーシェフの店でよく見かけるスタイルだ。

「キッチン常夜灯」という店名から洋食店だろうと思ったが、フレンチの店とは驚いた。アンバランスにも感じる「キッチン」の名は、親しみやすさを考慮したのだろうか。

顔を上げると、すぐに先ほどの女性が近づいてきた。

「主菜のお勧めは何ですか」

「今夜は牛ホホ肉の赤ワイン煮、鴨モモ肉のコンフィ、バスク風の魚介の煮込みをご用意しております」

お肉。お肉が食べたい。とにかく疲れた体に栄養を与えたい。

「牛ホホ肉の赤ワイン煮をお願いします」

頭の中はお肉でいっぱいだったが、ふと、こんな注文でよかったろうかと我に返った。一品料理でいいのか、前菜やサラダも頼むべきなのか。とっさにカウンターの奥の女性を見ると、彼女の前にもスープ皿が置かれているだけで、グラスの中はお水のようだった。

「どうぞ、お好きなものだけご注文なさってください」

サービスの女性はにこっと笑うと、カウンター越しに「シェフ、ブッフ・ブルギニヨンお願いします」と声を掛けた。料理人は顔を上げて頷き、すぐに調理に取りかかった。

「ここでは、肩の力を抜いてお料理を楽しんでいただきたいんです。お飲み物はお水でいいですか?温かいのが良ければ白湯もご用意できますよ」

「白湯ですか?」

「はい。冷たいお水が苦手という方もいらっしゃいますから」

なるほど。相手がお年寄りだろうが、マニュアルどおりに氷入りのお冷を来店後すぐに運ぶ「シリウス」とは大違いだ。

「じゃあ、白湯をお願いします」

「かしこまりました」

彼女はにっこり笑うと、「今度はぜひ魚介の煮込みを召し上がってみて下さい。当店のシェフはフランスのバスク地方で修業をしていたんです。つまりシェフの得意料理なんです」と、さりげなくアピールして厨房に向かった。

カウンター席からは厨房が一望できた。潔いほどのオープンキッチンだ。無駄なものは一切なく、調理台もガス台の周りも光るほどに磨き込まれている。

それに比べ「シリウス」のキッチンは、掃除こそ欠かさないものの、本社から届いたレシピや注意事項が一面に張り巡らされ、とてもお客さんに見せられたものではない。

私は厨房に入った女性の動きを目で追った。

シェフの横に立った彼女は、何と鉄瓶で湯を沸かしはじめたではないか。

時折、二人は親しげに言葉を交わす。小柄な彼女とすらっと背の高いシェフの互いを見つめる顔の角度がすっかり板についていて、もしかして二人は夫婦なのではないかと思った。年の頃も同じ四十代前半くらいだ。

私はカウンターに片肘をついて、ぼんやりと二人の様子を眺めた。

何だかすごくいい。こんな素敵なお店で、夫婦で美味しい料理を作り、客をもてなす。暮らしが仕事に直結している。嫌々仕事に通う私とは違い、どれだけ毎日楽しいだろうか。

ぼんやりとしているうちに白湯が運ばれてきた。

「ご主人ですか」

つい彼女に訊いてしまったのは、私もすっかりリラックスしていたからに違いない。熱いお湯が喉から食道を流れ落ち、お腹の底がじわりと温まる。

彼女はキョトンと目を見開き、次には「いやぁ、違いますよう」と大きく手を振った。

「初めてのお客様は、たいてい皆さん、そう思うみたいなんです。腐れ縁というか、相棒というか、美味しいものを食べさせてくれるので、一緒に働いているだけですよ」

「えっ、そうなんですか。すみません」

お似合いだと思ったのに、がっかりしたような、ほっとしたような、何とも複雑な気持ちになった。

「おかげで少しばかり栄養を与えすぎてしまったようです」

シェフができあがった料理を運んできた。

「ちょっと、何よその言い方。美味しいものばかり作るケイがいけないんじゃない」

女性はぷっくりと頰を膨らませた。丸い顔がますます丸くなり、なんとも愛嬌がある。

シェフはそれには答えず、私に「ごゆっくり」と小さく微笑むと、すぐに奥に下がって鍋を洗いはじめた。

会話が聞こえたのか、カウンターの奥の女性がくすりと笑ったような気がした。

サービスの女性はやれやれと言うように軽く首を振ると、カウンターの料理を示した。

「ごめんなさいね。さぁ、冷めないうちに召し上がれ。シェフ、態度はイマイチだけど、料理は美味しいから」

「はい、いただきます」

まさか真夜中に牛ホホ肉の赤ワイン煮を食べることになるとは考えもしなかった。

しかし、この店に入ったとたん感じた、あらゆる美味しさが濃縮されたような香りに抗うことなどできただろうか。真夜中にコキールグラタンを注文した金田さんの気持ちがよくわかった。何よりも私は、ここ数日ロクなものを食べていないのだ。

赤ワインとフォンドヴォー、牛肉の旨みが溶け出した芳醇な香りが皿から立ち上っている。ダウンライトを浴びて輝く黒に近い赤褐色のソースは、まるでビロードのように滑らかだ。一緒に煮込まれたのはマッシュルームと小タマネギ。横にはたっぷりのジャガイモのピュレが添えられている。ナイフを入れた瞬間、肉のあまりのやわらかさに驚いた。口に入れるとほろほろとほぐれる。

「……美味しい」

ため息が出た。添えられたジャガイモもこれまで食べたことのないくらい滑らかで、口の中ですぐに溶けてしまった。

「美味しいです!すごく美味しい」

こんな稚拙な感想しか出てこないのが情けないが、一人で美味しさを嚙みしめるのがもったいない気がして、サービスの女性と厨房のシェフ、それぞれに向かって何度も言ってしまった。

再び作業に没頭していたシェフも、顔を上げてこちらを見た。その口元にははにかむような笑みがあった。

言葉の少ないシェフの代わりに、女性が話し相手になってくれた。

「お口に合って嬉しいです。ウチのシェフ、愛想がないくせに、お客さんが美味しいって言ってくれた時だけは嬉しそうな顔をするのよ。観察していると面白いの」

「そうなんですか」

シェフはむっつりと押し黙っている。この二人の関係が面白くて、私は「美味しい」と何度も繰り返しながら牛ホホ肉を頰張った。

お肉を食べ終えた時、こんがり焼けた丸いブールが差し出された。

「シェフがどうぞって」

女性は皿を置くと、にっこり笑ってカウンターを離れた。シェフはそ知らぬ顔で仕込みを続けている。けれど、私の皿にたっぷりと残ったソースに気づいていたのだ。

「ありがとうございます!」

ブールの中はしっとりとしていて、ソースがよくしみ込んだ。パンの甘みと濃厚なソースがまた違う美味しさをもたらしてくれ、余すことなくきれいにソースを食べきることができた。今夜だけで何度美味しいと感激しただろうか。

「ご馳走様でした。真夜中にこんなに美味しいお料理が食べられるなんて思いませんでした」

「そうでしょう。そう思ってやっているんだもの。ねぇ、シェフ」

彼女はにこっと笑って料理人を振り返った。しかし彼は仕込みに没頭したままだ。

時計を見れば午前1時を過ぎている。カウンターの奥の女性客は今も座りつづけていた。

会計を終えると、女性スタッフが外まで見送りに来てくれた。

薄暗い通路は現実世界に戻るトンネルのようだ。いつまでも居心地のいいあの空間にいたい気がしたが、残念ながら明日も仕事である。

「また来てくださいね」

彼女は名刺代わりにショップカードを渡した。

坂道を下りながら振り返ると、まだ彼女が玄関で見送ってくれていた。

倉庫に帰り、明るい照明の下でもらったカードを見た。

いったい何時まで営業しているのだろうと気になったが、どこにも営業時間は記されていなかった。あるのは「キッチン常夜灯」という店名と、オーナーシェフ城崎恵、ソムリエ堤千花という二人の名前だけだ。

美味しい料理でお腹が膨れたせいか、布団に入っても体はポカポカと温かかった。

私は幸せの詰まったお腹を抱えるように布団の中で丸くなった。

いつもは眠れぬ夜に焦りばかりが募るはずなのに、今夜は「常夜灯」のことをいつまでも考えていたかった。

お店の佇まいも、静けさも、空間を満たす香りも、城崎シェフと堤さんの心をほぐすようなサービスもすべてが素敵だった。また行きたい。次は何を食べよう。そんなことをいつまでも、いつまでも考えつづけ、朝までの時間がそれほど長くは感じなかった。










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