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「やせ薬」の思わぬ効果が続々、心臓や腎臓、不妊や依存症にも

  • 2024年5月7日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

「やせ薬」の思わぬ効果が続々、心臓や腎臓、不妊や依存症にも

 米ヒューストン郊外在住のケーシー・アーノルドさんは、2023年の冬に55歳で完全にたばこをやめるまで40年間にわたって喫煙を続け、多い時は1日に2箱吸っていた。そんな彼女の禁煙を助けてくれたのは、「GLP-1受容体作動薬」という新しいタイプの減量薬だった。

 GLP-1(グルカゴン様ペプチド-1)は、インスリン(血糖値を下げるホルモン)の生成と放出を促し、消化のスピードを遅くし、食欲を抑える働きをもつホルモンだ。元は糖尿病の治療薬として開発されたエキセナチド、チルゼパチド、セマグルチドといったGLP-1受容体作動薬は、このGLP-1をまねて作用する。

 米食品医薬品局(FDA)は2024年3月、セマグルチドを成分とする肥満症治療薬「ウゴービ」を、心血管疾患を抱える肥満症患者の心臓発作と脳卒中のリスクを減らす薬としても承認した(編注:日本ではこの用途としては未承認)。

 ところが、GLP-1受容体作動薬の利用者が増えてくると、この薬には依存症や心不全、腎臓病など、これまで治療法が限られていた疾患に対する意外な健康効果があることがわかってきた。

 アーノルドさんがたばこをやめたのは、喫煙依存症の治療法としてGLP-1受容体作動薬を使う可能性を調べる臨床試験に参加したときのことだった。

「以前たばこをやめようとしたときとは正反対の体験でした」とアーノルドさんは言う。不安や怒りの代わりに彼女が感じたのは穏やかさであり、たばこへの渇望も薄れていった。

「さまざまな患者層に対して、雪崩のように効果が広がっています」と語るのは、英グラスゴー大学の心臓専門医マーク・ペトリー氏だ。氏は心不全患者におけるGLP-1受容体作動薬の使用をテーマに研究を行っている。「いいニュースがそこら中から聞こえてきます」

心不全の約半数を占めるタイプ

 米国では、約600万人以上が心不全を患っている(編注:日本では約120万人と推定されている)。患者のうち約半数は、血液を送り出す機能は正常にもかかわらず、心臓が硬すぎて広がらず中に十分な血液が入ってこない「駆出率(血液を送り出す収縮機能)が保たれた心不全」と呼ばれるタイプだ。

 2023年8月に医学誌「The New England Journal of Medicine」に発表された研究は、駆出率が保持された心不全の治療薬としてセマグルチドを使う臨床試験を、糖尿病がない患者を対象に行っている。

 その結果、セマグルチドを投与された患者は、プラセボ(偽薬)の患者と比べて症状が少なく、生活の質も良好だった。また、セマグルチドを使った患者は、炎症のマーカーであるC反応性タンパク質の血中濃度が低かった。

 この研究は規模が小さいため、セマグルチドが入院や死亡のリスクを下げるかどうかまでは判断できないものの、患者の生活の質が著しく向上したことを考えれば、期待が持てると言えるだろう。

 こうした薬はまた、心不全の原因とされる炎症を減らす効果もある。米クリーブランド・クリニックの心臓病専門医アマンダ・ベスト氏は言う。「われわれは体重計の数字だけでなく、もっと多角的に考え続けなければなりません」

 もう一つの主要な心不全のタイプである「駆出率が低下した心不全」については、今のところ、これらの薬が有効だと示す証拠はあまり見つかっていない。

次ページ:慢性腎臓病、不妊への効果

慢性腎臓病

 慢性腎臓病を患う人は世界で約8億5000万人いると見られるが、有効な治療法はほぼ存在しない。これまでは主に、腎不全の進行をできるだけ遅らせ、進行したら透析を始めるか腎移植を待つしかなかった。しかし患者の10人中9人は、その段階に達する前に合併症で死亡する。

 近年、いくつかの研究により、GLP-1受容体作動薬のデュラグルチドが、慢性腎臓病と2型糖尿病を抱える患者に効果があることが示されている。

 また、慢性腎臓病と2型糖尿病を抱える患者に対して、セマグルチドの効果を検証するために最近行われた臨床試験では、この薬が慢性腎臓病の進行を遅らせるのにあまりに効果的であったため、試験が早い段階で中止され、参加したすべての患者がこの薬の恩恵を受けられるようにする措置が取られた。

 米ワシントン大学医学部の腎臓病専門医で、この試験の管理委員会のメンバーであるキャサリン・タトル氏によると、腎臓に対して見られた効果のうち、血圧、血糖、体重などのリスク要因の減少によるものはごく一部に過ぎず、大部分は炎症の減少によるものである可能性が高いという。

「セマグルチドには強い抗炎症作用があります」とタトル氏は言う。「われわれの分野では、とりわけ糖尿病が腎臓に与えるダメージにおいて、炎症の重要性への認識が低すぎます」

 臨床試験の結果は、2024年内に公表される予定だ。

不妊への効果

 オゼンピック(セマグルチド)やマンジャロ(チルゼパチド)などのGLP-1受容体作動薬を使う患者が増えつつある中、驚きの副作用のひとつと見られているのが予期せぬ妊娠だ。中には、何年も不妊に悩まされていたのに妊娠したという患者もいる。

 GLP−1受容体作動薬と妊娠の関係についてはさらなる研究が必要であるものの、「オゼンピック・ベビー」が流行語になるほどの規模の現象が起こっているのは確かだ。専門家は、これにはいくつかの要因があると考えている。

 一つ目は、GLP-1受容体作動薬が胃を空にするのを遅らせることであり、これによって経口避妊薬が体に吸収されるスピードが遅くなる。そのせいで、経口避妊薬が十分に効果を発揮しなくなる可能性がある。

 二つ目は、女性の不妊の原因となる「多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)」とインスリン抵抗性(インスリンの働き具合が悪い状態)との関連にある。

「インスリン抵抗性は、卵巣周期の調整を狂わせます」と、米ヒューストン・メソジスト病院の内分泌学者アーチャナ・サドゥ氏は言う。インスリン抵抗性は、エストロゲンやテストステロンといった生殖能力に関連するホルモンのバランスを乱し、また、卵巣からの卵子の放出に影響を与える可能性がある。患者がGLP-1受容体作動薬を使い始めると、インスリン抵抗性が改善し、それが生殖能力を向上させると考えられる。

 ただし、これらの薬の妊娠に対する効果は未知数であり、利用する患者は、妊娠や避妊の計画について医師とよく相談することが重要だ。

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依存症の治療

 オゼンピックとマンジャロが一般的に使用されるようになって以来、患者からは、喫煙や飲酒の欲求が減るなどの予期せぬ作用が報告されるようになった。さらなる研究が必要ではあるが、食欲をつかさどる脳の部位は、乱用物質への渇望をつかさどる脳の部位と重なっていると考えられると、米テキサス大学ヒューストン医療科学センターで依存症を研究するルバ・ヤミン氏は言う。

 これまでもGLP-1受容体作動薬は、この分野で働く医師たちに、依存症の治療薬としての非常に大きな可能性を示してきた。

「たばこをやめるのは本当に大変なのです」とヤミン氏は言う。「喫煙者の大半はやめたいと思っていますが、ニコチンパッチやカウンセリングを駆使しても多くの人が失敗します」

 ヤミン氏は、そうした喫煙者の中にいた糖尿病患者にGLP-1受容体作動薬を処方した。そして次の通院日にやってきたとき、彼らはすでにたばこをやめていたのだという。何が起こったのかと尋ねると、たばこを吸いたい気持ちが突然消えたと彼らは答えた。「これは非常に興味深い発見でした」とヤミン氏は言う。

 同様のことがあまりに頻繁に起こったため、ヤミン氏は、GLP−1受容体作動薬が依存症に与える影響を臨床試験で調べることにした。

 ヤミン氏らがパイロット試験を実施したところ、エキセナチドを投与したうえでニコチンパッチを使用し、禁煙カウンセリングを行った参加者の46.3%が禁煙に成功した一方、エキセナチドの代わりにプラセボを受けた参加者の成功率は26.8%にとどまった。

 エキセナチドを投与された患者の禁煙後の体重は、プラセボの患者よりも2.5キロ少なく、これは禁煙する人に多い体重の増加を打ち消すうえで効果的と言える。この論文は2021年4月に医学誌「Nicotine & Tobacco Research」に発表されている。

 ヤミン氏が行っているフォローアップ試験に参加していたアーノルドさんにとって、その数カ月間で強く印象に残っているのは、落ち着いた気持ちで禁煙に取り組めたことと、体重の増加が最低限に抑えられていたことだという。試験の終了後も禁煙は継続できているものの、体重は少し増えてしまった。「たばこへの渇望はありません」とアーノルドさんは言う。「気になるのは体重の増加です」

 アーノルドさんは、エキセナチドを再び使いたいと望んでいるが、それにはあまりに費用がかかりすぎると感じている。1カ月分の薬代だけで1000ドル(約15万円)にもなるが、FDAがこれを依存症の治療薬として承認していないため、大半の保険会社はこれをカバーしてくれないのだ。

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