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ユーロビジョンの驚きの歴史、セリーヌ・ディオンやABBAが輩出

  • 2024年5月19日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

ユーロビジョンの驚きの歴史、セリーヌ・ディオンやABBAが輩出

 ヨーロッパのパフォーマー(そしてそのファン)たちが、優勝を目指して毎年競い合う「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」。熱戦が繰り広げられ、多大な人気を誇るこの番組はしかし、常に現在のような形で行われてきたわけではない。1950年代から続く国際的な歌の祭典のルーツは意外なことに、第二次世界大戦でヨーロッパにもたらされた破壊にある。

ユーロビジョンとは何か

 ユーロビジョン・ソング・コンテストのルールや参加者は時代とともに変化してきたが、その中心には常に音楽がある。各国がオリジナル曲を演奏するアーティストを選出し、ライブで行われる準決勝で他国の代表と競い合う。

 コンテストのハイライトは、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、英国の「ビッグ5」および開催国のアーティストが、決勝に進出したアーティストたちと競い合うグランドフィナーレだ。準決勝では、参加国の視聴者と音楽関係者からなる審査員の投票で、パフォーマンスを採点する。決勝では、参加国を含め世界中の視聴者による投票が行われる。最高得点のアーティストがその年のタイトルを獲得し、自分の曲をもう一度披露する。

 優勝国には、マイクの形をしたガラス製のトロフィーと翌年の大会の主催国となる機会以外には、さほど多くの特権が与えられるわけではない。それでも、何百万人もの視聴者にとって、この桁外れに派手で魅力あふれるコンテストは、決して見逃せない愛すべき番組だ。2024年はスウェーデンのマルメで37カ国がしのぎを削り、スイス代表としては1988年のセリーヌ・ディオンに続き、ニモが優勝した。

放送をめぐる国際協力の破壊と創造

 歴史家のディーン・ブレティッシュ氏によると、ユーロビジョンの起源は、ナポレオン戦争後の1814〜1815年、ヨーロッパの再編成を担ったウィーン会議にまで遡るという。多国間の条約会議に参加する出席者たちには、音楽とダンスに興じる機会が山ほどあった(会議ではワルツの人気が高く、国際的なワルツブームが巻き起こった)。

 オーストリアの王宮でさまざまな国が主催するコンサート、舞踏会、音楽会が開かれる中、会議の多国間取引からは、いくつもの新しい政府間組織が誕生した。大陸全体にわたるこうした新たな協力関係は、電信、ひいてはラジオという新たな分野を監督するグループへの道を開いた。

 1925年には、国際放送連合(IBU)と呼ばれるグループが、ヨーロッパおよび世界中でのラジオの規制と普及の一翼を担うようになった。

 しかし、ラジオをめぐる国際的な協力も戦争の波を食い止められなかった。第二次世界大戦はヨーロッパのインフラ、国家間の信頼、さらにはヨーロッパの国境までも壊滅させた。ソビエト連邦政府は、戦時中のIBUはナチスに乗っ取られていたとして、同組織の存在に反対するよう働きかけた。

 結局、IBUは1950年に解散し、同年、西ヨーロッパの23カ国により欧州放送連合(EBU)が設立された。

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エリザベス女王の戴冠式と欧州放送連合

 1930年代にヨーロッパに登場した当時、テレビはほぼ実験的な技術とみなされていた。しかし戦後、各国が独自のテレビ放送を開始し、自国の放送を他のヨーロッパ諸国にまで拡大することを望むようになった。

 フランスと英国がその先陣を切った。1950年代、英仏海峡を挟んで行われた一連の実験放送により、テレビは国境を越えられることが証明された。「カレーの実験(Calais experiments)」と呼ばれたこの試みは、1953年のエリザベス2世の戴冠式という、世界初の必見もののテレビイベントの可能性を示すものとなった。

 西ヨーロッパの人々がこれを視聴できたのは、のちに「ユーロビジョン」ネットワークと呼ばれるようになる、EBUの共同国際放送網のおかげだった。ユーロビジョン・ネットワークでは、各国の文化的成果を中心に、スポーツやゲームショーなど、広くヨーロッパの視聴者にアピールする番組が提供されている。

平和のための音楽

 EBU加盟国は、戴冠式だけに頼っていては視聴者を獲得できないと考え、1955年、ヨーロッパの歌のコンテストという大胆なプロジェクトを立ち上げることを決めた。この番組のモデルとなったのは、テレビで放送されて人気を博していたイタリアのサンレモ音楽祭だ。ソングライターが書いた新しい曲を互いに競わせ、イタリア最高の一曲を選ぶイベントと似たようなコンテストを、ヨーロッパ全土でやってみたらどうだろうかと、彼らは考えた。

 こうして1956年5月24日、西ヨーロッパの人々に向けて、スイスで第1回ユーロビジョン・ソング・コンテストが開催され、放送された。出場国は、ベルギー、フランス、西ドイツ、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、スイスのわずか7カ国だった。

 スイス代表のリス・アシアが、失われた恋を題材としたバラード「ルフラン」を歌って同国に優勝をもたらした。この番組は成功を収め、それ以降、ユーロビジョンは毎年開催されている。

「ヨーロッパは戦争に背を向けることを望んでいました」。2004年、EBUはそう説明している。「人々は再び旅行に出て、国境を越え、貿易を行うようになりつつありました。国際交流の機運が高まっており、テレビはその新しい空気を反映していたのです」

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「ユーロ」のさきがけ

 事実、ユーロビジョン・ソング・コンテストは戦後最初の、そして最も強力な汎ヨーロッパ的存在のひとつとして評価されてきた。その放送ネットワークを「ユーロビジョン」と名付けたのは、BBC広報担当者のジョージ・カンピーだ。

 この呼び名は、彼がヨーロッパのテレビに関する記事の見出しの文字数を減らそうと考えを巡らせている最中に生み出された。接頭語の「ユーロ」、そして星の輪をモチーフにしたロゴは、多くの人がナショナリズムや対立を超えた汎ヨーロッパ的な存在というアイデアに共感を持つようになるにつれ、より幅広い意味を持つようになっていった。

 しかし、ユーロビジョンから生まれたのは国際協力だけではない。歴史家によると、このイベントにはその時代の緊張や対立関係が反映されており、鉄のカーテンの向こうでは、これに対抗して「インタービジョン」というソング・コンテストが開催されたほどだ。

 また初期には、スペインのような独裁者を擁する西ヨーロッパ諸国が参加できるかどうかや、放送にはどの言語を使うかなどについて激しい議論が交わされた。当初は西側諸国しか参加していなかったため、コンテストはヨーロッパ全体を正確に代表していないという批判もあった(旧ソビエト圏の国々がユーロビジョンに参加するようになったのは、ベルリンの壁とソ連崩壊後のこと)。

 過去には、一部の国が、他国で迫害されているコミュニティの人々を自国の代表として出場させて、パフォーマンスに政治的な意味合いを持たせることもあった。また、国のステレオタイプを助長するとして批判された出場国も存在した。

 公式には、ユーロビジョンは政治的なメッセージの発信は避けるよう促している。それでも、ユーロビジョンのステージは結局のところ、人種、セクシャリティ、ナショナリズムをめぐる文化的戦争が頻繁に繰り広げられる場となっている。

 そして今もコンテストは続いている。このイベントをきっかけに有名になったABBAやセリーヌ・ディオン、フリオ・イグレシアスなどのスターや、「ロックバルーンは99」や「恋のウォータールー」といったヒット曲が、今も愛され続けているように。統一ヨーロッパという概念にはもはやさほどの現実味は感じられないかもしれないが、ユーロビジョンはまだその勢いを失ってはいない。

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