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世界中の人々をひきつける“最後の孤立部族”、センチネル族とは

  • 2024年4月12日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

世界中の人々をひきつける“最後の孤立部族”、センチネル族とは

 2018年11月、米国人の若い宣教師がインド洋に浮かぶ孤島のビーチに漁船から泳いで上陸したところ、島の孤立部族に弓矢で殺害された。アンダマン・ニコバル諸島の小さな島、北センチネル島でのこの事件の知らせは、世界中の人々を魅了した。ほとんどの人は、今でも外界からほぼ完全に隔絶された状態で暮らしている狩猟採集民が現代でも存在することを知らなかった。

 自信に満ちた26歳の宣教師ジョン・アレン・チャウ氏は、「サタンの最後の砦」かもしれないと感じたこの島の部族を改宗させることを目指していた。しかし、彼の短い訪問は、21世紀らしい別の栄光をもたらした。数日のうちに、部族のあずかり知らないところで、彼らの存在が急速に広まったのだ。

 チャウ氏の死からおよそ5年半が経ったいま、外部の人間がセンチネル族と呼ぶこの部族は、世界中でカルト的な人気を獲得している。検索エンジンで「北センチネル島」と入力すれば、記事を読んだり、ポッドキャストを聴いたり、ブログや掲示板、ソーシャルメディアの投稿を読んだりするのに何週間も費やせるだろう。

 人工衛星やヘリコプター、旅客機から撮影された島の画像を拡大して詳しく見ることもできる。センチネル族には4000語から成る英語のWikipediaの記事と、なりすましSNSアカウントも複数ある。YouTubeには何百もの動画があり、総視聴回数は1億回を超える。

 センチネル族のファンの多くは、センチネル族を現実離れした英雄とみなしている。つながり合う世界を断固として拒否し、デジタルデトックスを地球上で最も徹底的に実践する人々だと。手作りの弓矢を持つ数十人の裸の部族は、スマートフォンを手にする他の何十億もの人間よりも、どこか力強く、より人間らしく思える。

北センチネル島と人々の現状

 多くの点で、北センチネル島は未開の地のままだ。ジャングルに覆われた北センチネル島(面積は約70平方キロ、八丈島ほど)の内部の地図を作ったり、センチネル族と会話を交わしたりした訪問者は誰もいない。人口もわからないが、50人から200人と推定されている。

 どのような言語を話し、どのような法律があり、どのような神を崇拝しているのか、あるいは自らのことを自身の言語でなんと呼んでいるのかさえ、センチネル族以外は誰も知らない。通りがかりの船や航空機から、センチネル族が浅瀬で魚を突き刺したり、丸木舟を作って礁湖(サンゴ環礁によって囲まれた海)を渡ったり、狩猟用の弓を構えたりしているのが垣間見えるくらいだ。

 世界中の先住民の権利を守る団体「サバイバル・インターナショナル」によれば、アマゾンの熱帯雨林からインド洋、インドネシアにいたるまで、100以上の部族が孤立して暮らしている。なかでも小さな離島に住むセンチネル族は、おそらく世界で最も孤立した人々だ。

過去にはナショナル ジオグラフィックも遠征

 1975年、ナショナル ジオグラフィックは、インド人の人類学者と映像製作者からなる「友好的接触をはかる」探検隊に向かって海岸から矢を放つセンチネル族の印象的な写真を掲載した。「矢は言葉よりも雄弁――アンダマン諸島最後の部族」という見出しの下に掲載されたこれらの写真は、センチネル族を敵対的で時代遅れな存在として世界中の人々に定着させるのに役立った。

 センチネル族が現代社会から隔絶して暮らしているというのは正確ではない。彼らも私たちと同じように現代に生きている。

 技術がないわけでもない。センチネル族の弓は強力で精巧に作られており、彼らは素晴らしい技術でその矢を操り、おそらく近くの難破船から回収したであろう金属で矢じりを作る。

 それでも、人類は1万年の歴史のほとんどの間、オールで漕ぐ船から旅客機まで、さまざまな交通手段で北センチネル島を素通りしてきた。島は、部族や大陸をつないできたあらゆる装置や機器、つまり文字や蒸気機関、スマートフォンからほぼ完全に逃れてきた。センチネル族が外の世界について断片的な接触から得た知識がどれほどであれ(おそらくかなりのものだが)、自分たちの故郷が地球上で最も孤立した場所の1つであることを知る術はない。

次ページ:なぜこれほど長く孤立しているのか

なぜこれほど長く孤立しているのか

 地球上のあらゆる人間社会の中で、なぜセンチネル族だけがこれほど長く孤立を保てたのか、単純な説明はないようだ。1850年代に大英帝国がアンダマン諸島に領土を広げたときをはじめとし、その後にインドがアンダマン諸島の支配権を握った過去200年ほどの間、様々な人間がセンチネル族との接触を試みてきた。

 1967年から2000年代初頭にかけて、インド政府の人類学者が時折ボートで北センチネル島の浜辺に近づき、1991年には2回、波打ち際でセンチネル族にココナッツとバナナを手渡すほど接近できた。ほとんどの場合は、侵入者が近づきすぎると、センチネル族はただジャングルの中に姿を消すか、チャウ氏に対してしたように対応する。最初はジェスチャーと叫び声ではっきりと警告を伝え、それが通じなければ矢の一斉射撃をするのだ。

 なぜセンチネル族がこれほどかたくなに孤立状態を保ち続けてきたのかは、それほど不思議ではないかもしれない。アンダマン諸島には何百もの島があり、その中にはかつて言語的にも文化的にもセンチネル族に似た人々の社会が繁栄している場所もあった。

 19世紀、大英帝国がアンダマン諸島に侵攻し、最大の島の1つに囚人の流刑地を設置して、1857年の英領インドで起きた反乱で敗れ去った数万人を収容した。そこには、恐ろしい結末が待っていた。島民は伝染病と暴力によって壊滅的な打撃を受け、彼らの古代文化は「キリスト教化」と「文明化」を目指すヨーロッパ人によって抑圧されたのだ。

実は侵略を経験していたセンチネル族

 センチネル族にはサンゴ礁の外へ行ける船がないものの、隣の島の島民が間違いなく訪れていた。センチネル族は彼らから植民地支配者の手によって待ち受ける恐ろしい運命について警告を受けていたかもしれない。

 そして少なくとも1度は、北センチネル島自体が侵略を経験している。1880年、植民地の役人だった人類学者モーリス・ビダル・ポートマンが、後に陽気に述懐したように「住民と友好関係を築くため」に島を訪れた。

 より正確には、ポートマンは大勢の武装した男たちとともに上陸し、2週間にわたって島内を歩き回った末、幼い子ども4人と老夫婦を捕まえて誘拐し、大英帝国の主要な流刑地に連れ去ったのだ。

 そこで6人はすぐに病気にかかり、老夫婦は死亡した。病気の子どもたちはたくさんの贈り物とともに島に送り返された。この帰路で、彼らがどんな外来の微生物を持ち込んだかは想像することしかできない。

「私たちを放っておいてくれ」

 そういうわけで、2004年にインド沿岸警備隊のヘリコプターが、島民がインド洋大津波の被害を受けていないか確認するために島の上空を急降下したときに、センチネル族が見せた反応には十分な理由がある。

 1人の男がジャングルから飛び出し、ヘリコプターに向かって矢を放った。沿岸警備隊員は印象的な写真を撮影した。1人の男がダンサーのように機敏な脚でビーチを駆け抜け、上空の侵入者に向かって弓を傾けている。男の特徴はわからないが、真っ白な砂浜に浮かぶ彼のぼやけたシルエットは、旧石器時代の洞窟壁画のような永遠性と、一時停止の標識のような即時性を併せ持っている。

 その寡黙さにおいては世界的に有名であるにもかかわらず、センチネル族は1つのメッセージを大声ではっきりと伝えてきた。「私たちを放っておいてくれ」と。

後編「“最後の孤立部族”センチネル族はなぜ私たちを魅了し続けるのか」を読む

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