深い霧に包まれた沼や湿地は、いかにも怪談やホラー映画の舞台になりそうだ。暗闇に光る火の玉や霧の向こうの黒い魔犬、妖精がつくる謎の輪など、昔から奇怪なものを見たという目撃談に事欠かない英国のイングランド東部も例外ではない。今でも、日が沈んで暗闇に包まれた沼地にひとたび迷い込めば、腐った水と黒い泥に足を取られ、底なしの沼に引きずり込まれてしまわないとも限らない。
北海からケンブリッジまで広がる面積約3900平方メートル(ほぼ滋賀県の面積に相当)の沼沢地帯は、地元では「ザ・フェンズ」と呼ばれている。フェン(fen)には英語で「沼沢地」という意味があり、似たような沼沢地や湿地は世界中に存在し、それぞれが持つ特徴によって呼び方が異なる。
欧州の泥炭地や沼沢地(泥炭地の方が酸性度が高い)では、最後の氷期の間に氷河の後退によって形成された、今では泥炭と呼ばれる腐敗した植物が水の底に堆積している。表面はミズゴケで覆われていることが多く、地質は柔らかく、立ち入るのは危険だ。
一方湿地は、浅い水があるか、洪水のときに水がたまりやすい川か海沿いの土地で、葦や柔らかい茎の低木が生い茂っている。樹木が生い茂っていれば、森林湿地と呼ばれる。だが、排水の悪い土地の総称としても、湿地という言葉はよく使われる。
霧は、湿地で最も気を付けなければならない自然現象の一つだ。
「空気中の水分である湿度が十分に高ければ、大気に浮遊するエアロゾルと呼ばれる微粒子に結露が生じます」と、カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大学の大気化学者ナディーン・ボルデュアス・デデキンド氏は説明する。「北極圏にはエアロゾル粒子がほとんど存在しないため、霧も発生しません。しかし湿地には、生物を起源とする物質と水分が豊富にあります」
霧の主な要素となっているのが、植物から放出される揮発性の有機化合物だ。これが空気中で酸化し、より大きな分子を形成すると、水分を吸収しやすくなり、霧が発生する。
そしてこれが、一日のうちある決まった時間に起こると、人の目が惑わされてしまうことがある。
太陽が沈んで気温が下がると湿度が上がり、結露ができやすくなる。すると、地面に近いところで放射霧と呼ばれる濃い霧が発生する。
放射霧は、夜遅く、または夜明け前に現れることが多いが、ちょうどその頃は、疲れ切った目が暗い霧の向こうに何かありもしないものを見てしまいがちな時間帯でもある。名探偵シャーロック・ホームズが夜霧のなかバスカヴィル家の獰猛な犬と対峙するという設定も、ここからヒントを得たのだろうか。
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湿地にはもう一つ、不気味な言い伝えのもととなった超自然現象がある。夜の暗闇のなか、ぼうっと浮かび上がる火の玉を見たという話だ。
英国では「ウィル・オ・ウィスプ(ウィロー・ザ・ウィスプ)」「ジャック・オー・ランタン」などと呼ばれ、火の玉が夜道を行く旅人を惑わし、それに誘われて沼に引きずり込まれた者は二度と戻れなくなると恐れられた。今では目撃談がほとんど聞かれなくなったが、J・R・R・トールキンの『指輪物語』に描かれている死の沼やハロウィンに飾るカボチャなどの現代文化に、その名残を見ることができる。
湿地で見られる火の玉現象には様々な科学的説明がつけられているが、最も現実的なのは、酸素の少ない土のなかで植物が発酵することによって発生するホスフィン(リン化水素)によるという説だ。イタリア、パビア大学の化学者たちは2013年、地上に漏れ出たホスフィンガスが大気中の窒素と酸素と反応し、かすかな光を発する様を観察した。
あまりに弱い光なので、真っ暗闇のなかでしか見えない。そのため、現代のように街灯や住宅の明かりなど光があふれている世界では見られなくなったと説明されている。
明るい昼間であっても、イングランドの湿地には背筋が凍るような場所がある。
湿地に分け入ったことのある人なら、「妖精の輪(フェアリーリング)」に出会ったことがあるかもしれない。湿地のなかに、なぜか植生が明らかに周囲と異なる場所がある。そこは妖精の世界と考えられ、人間は干渉してはならないとされている。
科学もその警告を支持するが、妖精とは全く関係のない理由からだ。そこは、密かに遺体が沈められた跡かもしれない。
「腐敗は、土壌の化学組成を完全に変えてしまいます」と、英レクサム大学の法医学者エイミー・ラッテンベリー氏は説明する。「私たちはこれを『腐乱死体の島』と呼んでいます。死体から流れ出た液体が土壌に浸み込み、植物を死滅させます。しかしその後死体は栄養の宝庫となり、いくつもの異なる種の植物が同じ場所を争って繁殖しようとします。やがてある特定の種にとってだけ最適な条件が整います」
その結果、その場所に特徴的な模様が浮かび上がる。「沈められた死体の輪郭がはっきりと見えるのです。特にイラクサは、腐敗した死体があるところの方がそうでない場所よりもよく育つようだということに私たちは気づきました」
沼のなかには、非常に古い死体も眠っている。
酸性で低酸素の泥炭は分解を妨げ、微生物が全くいない環境を作り出す。泥炭地を覆うミズゴケも、死体の長期保存を助ける化学物質を放出する。やがて死体はなめした皮のようになり、数百年から数千年後に「湿地遺体」として発見される。現在知られている最も古い湿地遺体は紀元前8000年頃のもので、デンマークで発見された。
どんな説得力のある幽霊話にも共通していることだが、湿地にまつわる伝説にもわずかな真実は含まれているようだ。