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「オニツカタイガー」はどうやって生まれた?神戸から世界に飛躍した「アシックス」の創成期に迫る!

  • 2022年9月16日
  • Walkerplus

日本を代表するスポーツシューズやスポーツ用品を製造するメーカー「アシックス」。今から73年前の1949年に神戸に誕生した鬼塚商会がルーツであり、以降、アスリートたちのさまざまなニーズに呼応し、いくつもの革命的なスポーツシューズを開発。結果、同社のシューズを履いた世界中の選手たちが好成績を残していくのと合わせて、同社の評価も広まっていくことになった。

今回は神戸を舞台に繰り広げられたその歴史について、株式会社アシックス 広報部 アシックススポーツミュージアム・アーカイブチームの福井良守さんに聞いた。

■実は神戸にはゆかりがなかった創業者・鬼塚喜八郎
今日のアシックスの礎を築いた創業者・鬼塚喜八郎(1918〜2007年)。鳥取県出身で、10代の頃は陸軍士官学校への進学を目指す真面目な少年だったが、地元でのわんぱく相撲で大男に挑んだところ大怪我をし、療養生活を余儀なくされ進学を断念。回復した後に、徴兵検査を受け合格し見習士官を経て将校となった。

見習士官時代に同じ連隊にいた上田中尉という人物と懇意になる。当初、上田は復員後、神戸に住む“鬼塚”という家に養子縁組を結ぶ予定だったが、その後連隊はビルマ戦線に参加。上田はビルマに出向き、喜八郎は残留となったが、この際に上田から、「俺の身に何かあったら、鬼塚家の夫婦の死に水を取る約束をしているから、お前が引き継いでなんとかしてやってほしい。頼むぞ」と言われる。結果、上田はビルマで戦死。そのまま終戦を迎え、喜八郎は郷里の鳥取に帰った。

その後、神戸の鬼塚夫妻は喜八郎のもとを訪ね、「上田からあなたが引き継いでくれると聞いている。ぜひ私たちと養子縁組し面倒を見てほしい」と言ったという。当然、喜八郎の親は反対したが、喜八郎は「いや、男と男の約束だ」と神戸に出ることに。そして喜八郎が鬼塚家と養子縁組することになった。

「つまり喜八郎は神戸、鬼塚家ともに縁もゆかりもなかったんです。まるで小説みたいな話ですが、喜八郎の人生は神戸に移り住んだ頃から、さらに数奇な人生を辿っていくことになります。神戸という街だったことも運命的でした。神戸港は開港して今年で154年目を迎えますが、これまでに一度も軍港になったことがなく、古くからスポーツを含む西洋のあらゆる文化や産業が入ってきていた。これも喜八郎の後の人生、さらにアシックスの展開に大きな影響を与えることになります」

■喜八郎を奮い立たせた言葉が「アシックス」の語源に
スポーツシューズを作るにあたり、欠かせないのがイギリスのゴム製品メーカー・ダンロップ。1909年に神戸に東アジアの拠点として工場を構え、この影響で当時から界隈ではゴム産業が盛んとなり、特に神戸の長田区は今日も全国屈指の靴製造業の集積地として知られている。この背景も、後に喜八郎が起業をするうえで大きな影響を与えることになる。

神戸に渡った当初の喜八郎は起業するつもりはなく、とある商事会社にサラリーマンとして就職。しかし、その会社は表向きはビアホールなどを経営している一方、闇市の闇屋を仕切るような仕事が大半で、喜八郎はこのことに幻滅したという。

喜八郎は「自分の仲間は多くが戦争で死んでいった。生き残った自分がこんなことをやっていてはいけない」という思いから、3年ほどで退職することになった。福井さんによれば、この退職前後に喜八郎がある人物を訪ねたことがきっかけで、起業につながったという。

「喜八郎の陸軍時代の先輩で、兵庫県庁の保健体育課の課長になっていた堀さんという方がいました。喜八郎が堀さんを訪ね、『どんな仕事をすべきか』と思案していることを告げると、堀さんは『神戸にいるならスポーツシューズを作ってみたらどうか』と勧められたそうです。さらに堀さんは古代ローマの詩吟の一節『もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかしと祈るべきだ』という言葉を喜八郎に教えてくれたそうです。この原語であるラテン語が『アシックス』の社名の由来です」

喜八郎はこの言葉にいたく感銘を受け、スポーツによる健全な青少年の育成を目的に、本格的にスポーツシューズを作ることを目指す。1949年に鬼塚商会を神戸で創業、同年改組し、社員2名で「鬼塚株式会社」を設立した。

■独自の経営戦略「オニツカ式キリモミ商法」で大成功!
創業当初、資本力も知名度もなかった喜八郎は「弱者の戦略」として、独自の経営戦略理論を打ち出す。

「多くの人が作るような製品を、自分たちが真似して作ったとしても競争に必ず負ける。だから、弱者の戦略を取らないといけない。ニッチでも他人がやっていない、できない市場に狙いを定め、そこを錐で穴を開けるように1点集中突破していく」。こういった理論を喜八郎は「オニツカ式キリモミ商法」とし、この方法を持って頂点を目指すことになった。

「『他社がやっていない』ということは『市場がない』ということです。『ニッチでも他人がやっていない、できない市場に狙いを定め、そこを錐で穴を開けるように1点集中突破していく』のですが、鬼塚はトップのセグメント(市場)を狙った。一般的な考えでは、そのセグメントは市場規模が小さく、かつ求められるプロダクトは機能的に高い要求が求められる。従って、誰もやらないし、やっていなかったのが現実でした。そこで鬼塚が考えたのが、今ではいわゆる普及学で体系化されている理論です。トップを攻略すればそれに憧れる層に普及していくので(ピラミッドの頂点から裾野へ)、トップセグメントそのものの市場は小さくても回収できる、と考えたのです。今ではごく普通の理論ですが、当時喜八郎がこれを編み出したのは、個人的にはおそらく軍隊時代に養われたであろう合理的な考え方からではないかと思います」

「オニツカ式キリモミ商法」の理論から喜八郎は「競技専門シューズ」を思い立ち、取り組むことになる。当時の日本にその市場はなかったが、これに特化させて開発することで、後にオニツカは大きな飛躍を遂げることになる。

■シューズを「タコときゅうりの酢の物」から着想!?
まず最初に手掛けたのは、バスケットボールシューズだった。当時、スポーツシューズ製造においては、最も難しいとされていたバスケットボールシューズにあえて挑んだのは「最初に高いハードルを超えられれば、その後のハードもどんどん超えられる」という喜八郎の考えからだった。

1950年にファーストモデルをリリースしたが、発売後も喜八郎は改善点を模索し続けた。ファーストモデルの問題点は「競技中によく滑る」ということだった。喜八郎は毎日地元の強豪校・神戸高校の体育館に出向き、玉拾いをしながら生徒たちの動きを見学した。

生徒たちの動きを見ていると競技中によく滑っている様子が目立ち、「ストップ&ダッシュをしやすいシューズなら喜ばれるだろう」と思いつくが、どのようにしたら実現できるかはわからなかった。

しかし喜八郎はその後、夕飯に出たタコときゅうりの酢の物に入っているタコの吸盤を見て、「タコの吸盤のように、靴の底ソール部分を凹凸の凸型にくり抜けば止まりやすくなるのではないか」とピンときたという。実際にそのように作ってみると、見事に「ストップ&ダッシュ」がしやすくなった。しかし、今度は「止まりすぎてつんのめる」といった問題も起き、模索を続けて“ちょうどいいくり抜き”を考案。ファーストモデルから翌年の1951年に吸着盤型バスケットボールシューズを発売した。

■オリンピックをきっかけに世界に名を轟かせたオニツカ
福井さんによれば、このバスケットボールシューズの成功に加え、1956年に開催されたメルボリンオリンピックでオニツカ製シューズを履いた選手が金メダルを取ったことで、喜八郎は大きく弾みをつけたという。

「バスケットボールシューズの後、バレーボールシューズ(1952年)、マラソンシューズ(1953年)、レスリングシューズ(1955年)など、競技に合わせたモデルを続々と作っていきました。1956年にはメルボルンオリンピックで、オニツカのシューズを履いた選手がレスリングで2個金メダルを取った。たった2名で始めた会社が、7年後に世界一になれたというわけです。

さらに、1964年の東京オリンピックが決まります。今度はそこに照準を定めて、競技専門シューズを作っていきました。『こっちから世界各地に出向くことはできないが、各地から一流の選手たちが日本に一同に来てくれる。これは千載一遇のチャンスだ』として、喜八郎は世界に出る足がかりを作ろうとしました」

この1964年の東京オリンピックまでにオニツカは、サッカースパイク、フェンシングシューズ、陸上短距離シューズなどをリリース。オニツカの競技専門シューズを履いた世界中の選手によって47個ものメダルを獲得することになった。“日本のオニツカ“の名は世界中に知れ渡ることになったが、同時に世界各国のスポーツシューズ専門メーカーとの激化にもつながり、商業上では本格的な世界戦がスタートする。

■オニツカタイガーの定番「メキシコライン」の秘密
オニツカの競技専門シューズが世界中の選手に受け入れられたのは、機能性だけでなく、優れた意匠にもあったようだ。1950年代までの競技専門シューズは無味乾燥なデザインのものが多かったところに、オニツカは機能性に加えデザイン性にこだわっていた。

「それまでの各競技は『スポーツ』というより『体育』みたいな印象が強かった。だから地味なシューズが多かったんだと思いますが、オニツカではアルファベットの『U』と『I』を模したオリンピックを象徴するようなストライプデザインを作りました。当初、スポーツシューズの営業の人の間では『トレンドからかけ離れたデザインは…』と反対されたそうですが、それが世界中の選手たちに受け入れられ、大ヒットとなりました」

この意匠面での支持を受け、オニツカは1968年に開催されたメキシコシティーオリンピックに先立ち、1966年に「メキシコライン」を発表する。今日まで続く「アシックスストライプ」と呼ばれるラインを施したモデルである。

「ひと目見て『オニツカのシューズだ』とわかるデザインを、と社内コンペで考案されたものです。神戸港の海の波をモチーフにしたデザインでしたが、レントゲンで写真を撮り、アスリートたちに負荷がかからないかなど科学的な根拠をもとに採用されたものでもあります。当初、喜八郎はオリンピックごとにデザインを変えるつもりでいたのですが、この『メキシコライン』が世界中に認知されたことで、このデザインをそのまま継承し続けることにしました。以降、しばらくの間は『オニツカライン』と呼び、現在の『アシックスストライプ』まで継承されることになります」

■名前に「タイガー」がつくのはなぜ?
ところで、オニツカや後のアシックスに冠される「タイガー」という名称だが、実は1950年のバスケットボールのファーストモデルから愛称として使われていたという。その理由は、兵庫県に拠点を持つ阪神タイガースとなんらかの関連性があったのかと思いきや、全く関係がないんだとか。

アジア圏最強の動物であるトラを喜八郎がいたく気に入っていたことと、「虎は一日に千里を走る」ということわざも好きだったようで、これにちなんで命名したという。

「競技用シューズメーカーでは、プーマがピューマをモチーフにしていたし、リーボックもアフリカでのガゼルに対する呼び名です。俊敏な動物の名がブランド名に馴染むということで、オニツカでも『タイガー』という呼称をつけたのですが、この言葉単体での商標登録はできなかった。そこで、『タイガー』単独は使わずに『オニツカのタイガー』、英語圏では『Onitsuka’s Tiger』として使われ、その後1965年に『オニツカタイガー』(Onitsuka Tiger)と呼称統一されます。として使うようになりました。1977年にオニツカと他2社が合併して『アシックス』が誕生しますが、このときは世界的に認知度が高い『オニツカタイガー』を継承する形で『アシックスタイガー』ブランドを展開することになりました。これはしばらく続きましたが、1991年に初めて『タイガー』を廃し、『アシックス』に統合されました」

■1990年代「ハイテクスニーカーブーム」で大苦戦
しかし「タイガー」をやめた1990年代、世界的なハイテクスニーカーブームが巻き起こり、質実剛健の競技用シューズ作りを貫いていたアシックスは一時経営が苦しい時期があったという。

ただし、ブームはあくまでもブーム。その揺り戻しとして、1990年代後半にはレトロスポーツファッションの支持が高まり、この時期に再評価を受け、今日まで続く根強い支持につながったそうだ。

「ハイテクスニーカーブームの時代は確かに苦しかったです。しかし、あのブームが去ったおかげで、レトロスポーツファッションの支持が高まりました。当初はあらゆる古典的なブランドが再評価されましたが、消費者もよく知っており、『ストーリーを持つ本物のアスリートブランドでないと買ってもらえない』という事態が起きました。アシックスはオニツカタイガーとアシックスタイガーの時代からあらゆる競技で数多くの成績を残していたので、改めて確固たる評価をいただくことにもなりました」

■喜八郎の思いを引き継ぐアシックスのこれから
神戸を舞台にたった2名で立ち上がった鬼塚商会から、世界中の競技用シューズブランドと肩を並べるまでの73年間。最後に、今の想いを福井さんに聞いた。

「73年前、喜八郎が鬼塚商会を起業したときは『弱者の戦略』しか取りようがなかったと思いますが、そのやり方は本当に正しかったと思います。そして、当初喜八郎が思い描いていた『青少年育成に役立つ仕事をしたい』といった願いは十分実現できたのではないかと思います。これからはこれまでに行ってきた競技用シューズの開発だけでなく、デジタルを駆使した個人により歩み寄ったサービスを展開していきたいです。今後もアシックスにもご注目いただければ幸いです」

取材・文=松田義人(deco)

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