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誰が、いつ、何のために? 今も解けない巨大な古代遺跡の謎5選

  • 2024年5月6日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

誰が、いつ、何のために? 今も解けない巨大な古代遺跡の謎5選

 立石(りっせき)、得体のしれないマウンド(塚)、地上に描かれた線。古代文明は、その存在の痕跡を残して滅びた。当時の人々にとっては深い意味があったに違いないこのような遺跡に込められた思いを、現代の私たちが知ることは難しい。その後の地球に生きる私たちは、「誰が? 正体は? いつ? なぜ?」と思いを巡らせるしかない。

 考古学者たちは、こうした重要な意味がありそうな遺跡の調査を進めてきたが、いまだにその謎が解明されていないものもある。ここではその一部を紹介しよう。

イースター島の石像と文字に秘められた謎とは?

 イースター島(現地語では「ラパヌイ」)は、地球上で最も隔絶された有人島のひとつだ。1000年以上前、この島の住民たちは数十トンもある一枚岩を加工して、数百体のモアイ像を作った。これらは300年ほど前に発見されて以来、考古学者たちを魅了してきた。

 人々は手工具を用い、主に火山性凝灰岩からモアイを彫りだして、何らかの方法で石の祭壇まで運んだ。その目的は何だったのか。どのようにして石像を移動させたのだろうか。

 この島には、「石像が歩いた」という伝承がある。モアイは知られざる文明または宇宙人が移動させたに違いない、と主張した作家たちもいた。もっと学術的な観点から、台に乗せて運んだという説もあった。

 島の人々の「モアイ像は歩いた」という言い伝えが正しかった可能性が、近年、考古学者たちによって示された。ロープを使い、数十人で底面のカーブに沿ってモアイ像を左右に揺らすと、石像は前に「歩く」ことができるのだ。

 ヨーロッパの探検家たちが島にやってきた頃には、モアイ像の多くが倒れており、モアイ像を作った目的も島の伝承から消えていた。モアイ像は、対立するグループ間の権力の象徴だったのかもしれない。あるいは、平和な宗教的意図があったのかもしれない。

 この島で発見された木や石の文字板も謎だ。こうした文字板にはロンゴロンゴ文字が書かれているが、解読できていない。この不思議な象形文字は左から右に読み、次の行は板を上下逆さまにして読む作りになっている。モアイ像とおなじく、この文字の謎も解明できないままだ。

次ページ:「巨大なヘビの塚」の目的は?

カルナック列石の意図は?

 フランスのカルナック村の近くには、風雨にさらされて摩耗した3000点以上の巨石が列をなす。単体の石を立てた「メンヒル」と、複数の石を組み合わせた「ドルメン」が、約3キロにわたって続く。これらの石は数千年前に立てられたが、その目的や起源はいまだにわかっていない。

 巨石群は、その後の変遷するブルターニュの文化において神聖視されてきた。古代ローマ人は、花崗岩にローマの神々を彫った。のちにキリスト教徒たちは独自のシンボルを加えた。一説によれば、異教徒の兵士たちによって海へ追い詰められた聖コルネリが、兵士たちを岩に変え、それがメンヒルとして残ったとも伝えられている。

 しかし、実際には、これらの巨石群はキリスト教の発祥よりもはるかに古い。ブルターニュ地方のケルト人以前の新石器時代の人々によって、紀元前4500年〜前2000年頃に作られたとされている。カルナック列石は古代の神々をたたえるためだったのか、祖先を敬うためだったのか、太陽や星々の動きを示しているのか。灰色の巨石群の秘密は、いまだに明かされていない。

グレート・サーペント・マウンドの目的は?

 米オハイオ州にあるグレート・サーペント・マウンド(「巨大なヘビの塚」)は、全長が396メートルを超え、幅は約6〜8メートル、高さ1〜2メートル、同州南部の丘陵地帯にうねるように横たわる世界最大の形象墳(何かをかたどった塚)だ。そのしっぽは優美にとぐろを巻き、頭部は巨大な卵を飲み込もうとしているようにも見える。

 だれがこのマウンドを築いたのか、どんな意図があったのか、いまだにわかっていない。この遺跡が最初に記録されたのは1840年代。当初は、紀元前500年〜後200年頃にこの地域に住んだアデナ人が築造したと考えられていた。近くの埋葬地からは彼らの遺骨も発見されている。

 しかし、放射性炭素年代測定法で調査した結果、もっと後期のものであり、おそらく900年ほど前、フォート・エンシェント文化の頃に築かれたと推定された。フォート・エンシェント文化は、図柄にガラガラヘビを多用するミシシッピ文化の影響を受けている。多くのアメリカ先住民文化では、ヘビには霊的なパワーがあるとされていた。

 サーペント・マウンドの頭部が夏至のときの日没と同じ方向なので、一部の考古学者は、このマウンドが天文学または儀式のために築かれた可能性を指摘している。だが、副葬品や文書記録がないので、このマウンドは今後も大きな謎のままかもしれない。

次ページ:エルドラドは実在する?

ナスカの地上絵は何のために?

 約2000年前、ペルー南西部の海岸沿いの砂漠で、人々は1000点を超える巨大な図形を描いた。乾燥した高原の数百平方キロにわたって、四角形や台形、渦巻、細い線、さらには巨大な生き物の形をした線が残っており、こうした地上絵は、ナスカとパルパの町の間に集中している。

 1920年代、アンデス山脈上空を飛行していたパイロットたちが、この巨大な地上絵を発見した。いったい何のために描かれたのか? その謎を解き明かそうと数十年に及ぶ調査が始まった。

 いくつもの答えが浮上しては消えていった。わかっているのは、こうした地上絵が主にナスカ文化の人々によって描かれたということだ。ナスカ文化は、紀元前200年〜後600年頃に栄えた文化だ。地上絵の正体について、研究者たちは、灌漑(かんがい)用水路、天文暦、インカの道路、原始的な熱気球から展望する図形など、さまざまな説を提示してきた。宇宙人が飛行体を着陸させるための基地という奇想天外な説も、根強く支持されている。

 現在の有力な解釈はもっとシンプルで、神聖な土地に描かれた儀式用の道と推定されている。地上絵の多くが雨や豊穣に関連する図形で、線に沿って今も足跡が残っているのがその根拠だ。

エルドラドは実在する?

 もともとエルドラド(黄金郷)は、町ではなく人間を指していた(スペイン語のEl Doradoは「黄金の人」)。1500年代の初め、南米を訪れたスペインの探検家たちがその伝説を耳にした。彼らが聞いたのは、アンデスのどこかにいる先住民のムイスカ人は、新しく即位する首長の全身に金粉をまぶし、聖なる湖に金とエメラルドを奉納する、という話だった。

 この話を知って欲に目がくらんだスペイン、ドイツ、ポルトガル、英国の冒険家たちは、謎の財宝を手に入れようと、コロンビアやガイアナ、ブラジルの過酷な自然に足を踏み入れた。そのほかにも、見込みがあると思われる場所ならどこへでも行った。やがて、人間だったエルドラドは、転じて金で覆われた秘密の谷を指すようになった。

 エルドラドを目指した探検家のひとりが、英国人のウォルター・ローリー卿だ。1617年の遠征では息子のワットが死亡し、ローリー卿自身もヨーロッパに帰還後に、王の命令に背いた罪で処刑されている。こうした強引なエルドラド探索で多くのアメリカ先住民やヨーロッパ人が命を落としたが、目当ての黄金は一度も見つからなかった。

 しかし、この伝説がまったくのウソというわけでもない。ムイスカ人の伝説に登場する湖は、コロンビアのボゴタに近いアンデス高地にあるグアタビータ湖かもしれないのだ。

 この湖や周辺では、複数の金製品と宝石が見つかったことがある。しかし、湖の水を抜いて伝説の財宝を回収しようとする試みは、すべて失敗に終わった。湖に沈められた財宝があるとすれば、今も水中に眠っているはずだ。

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