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古代ローマのトイレ税や欧州のひげ税など、税の歴史とヘンな税

  • 2024年4月19日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

古代ローマのトイレ税や欧州のひげ税など、税の歴史とヘンな税

 私たちはこの世に暮らす限り、税から逃れることはできない。長い歴史の中で、為政者たちはひげを生やす権利から衣服を着る権利に至るまで、あらゆるものに課税してきた。なかには、「現代に存在しなくてよかった」と思う税も数多い。税が生まれた歴史を振り返りつつ、いくつか紹介しよう。

始まりの時代(古代エジプト)

 課税システムを最初に整備した文明の1つが古代エジプトだった。課税の仕組みが整えられていったのは紀元前3000年頃から。ナルメルが下エジプトと上エジプトを統一し、エジプト第1王朝を創始した直後のことだ。

 古代エジプト黎明期の支配者たちは、税に個人的にも強い関心を寄せていた。彼らは自ら側近を連れて毎年国中を回り、油、ビール、陶磁器、家畜、農作物など課税対象者の資産を評価した上で税を課した。古王国時代、税収はギザのピラミッド建設などの巨大プロジェクトに投じられた。

 古代エジプト3000年の歴史を通じて、課税システムはより洗練されたものとなっていく。

 新王国時代(紀元前1539年頃〜紀元前1075年頃)には、収入が発生する前に収入額を予測し課税する方法も編み出された。これは「ナイロメーター」が考案されたおかげで可能になった。毎年氾濫が起こる時期にナイル川の水位を測定する設備だ。

 もし水位が低過ぎれば、干ばつで作物が枯れてしまうことが予測される。逆に水位が十分であれば、豊かな実りが期待でき、課税額も高く設定できるという計算だ。

遺体税(古代メソポタミア)

 税の歴史は鋳造貨幣の歴史よりも古い。どんな物でも課税対象になる可能性があり、納税方法もバラエティーに富んでいた。

 なかでも、古代メソポタミアではずいぶん奇妙な納税方法が生まれていた。「例えば、ある遺体を墓地に埋葬する際にはビール7たる、パン420個、大麦2ブッシェル、羊毛の外套1枚、ヤギ1頭、ベッド1台が課税されたと考えられます。1人の遺体にです」と、米オクラホマ州立大学の歴史学者トーニャ・シャラーチ氏は言う。「紀元前約2000年〜1800年には、ある男性がほうき1万8880本と丸太6本で税を払ったという記録があります」

 物納という納税方法を独創的に利用して、収税吏をだます者も現れた。「ある男は非常に重いひきうす石以外は何も持っていないと主張し、収税吏にそれを税の代わりに持っていかせました」

トイレ税(ローマ帝国)

 ローマ皇帝ウェスパシアヌス(在位69年〜79年)は、アウグストゥスやマルクス・アウレリウスのように誰でもが知る人物ではない。しかし彼は混乱期にあったローマ帝国に安定をもたらした。その方法の1つが尿への課税だった。

 古代ローマ人は、小便(尿)を重宝した。アンモニアが含まれるからだ。彼らは、この液体がほこりや油分を落とし、衣服の洗濯や、果ては歯のホワイトニングにも使えることを発見した。公衆トイレにたまった尿の取引が行われるようになると、ウェスパシアヌスはこれに課税し、かなりの税収を得た。

 だが、これを不快に思う人々もいた。歴史家スエトニウスは、紀元120年ごろの著書『ローマ皇帝伝』にこう記している。「尿にまで課税することをウェスパシアヌスの息子ティトゥスがとがめた。すると、ウェスパシアヌスは初回の徴税で得られたコインの1枚を息子の鼻先に突き付け、『臭うか』と尋ねた。息子が否と答えると、ウェスパシアヌスは言った。『だが、小便から得たんだぞ』」

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ひげ税(イングランド、ロシア)

 貨幣が広く使われるようになると税収は安定する。しかし必要とあればロシアの支配者たちは、新たな税金を課すことをためらわなかった。ヨーロッパ史を振り返ると、君主たちは臣民のひげに一度ならず課税を試みている。

 1535年、イングランド国王ヘンリー8世は顔の毛に対する税を導入。税額は本人の社会的地位に応じて高くなった。王自身もあごひげを生やしていたが、課税の対象外だったことは言うまでもない。

 ロシアの改革者であるピョートル大帝も、1698年にひげ税の徴収を始めた。西欧にならおうと努めていた大帝は、ロシアでは普通だったあごひげを、前時代の象徴と考えたのだ。あごひげをたくわえた男性は高額の税を払ったうえに、あごひげを生やしてよい権利を買ったことを示す証明書を携帯しなければならなかった。だが、ピョートル大帝のひげ税は長続きせず、1772年、エカテリーナ2世に廃止された。

我が子税(オスマン帝国)

 オスマン帝国では、非ムスリムの臣民は最愛のもの、つまり我が子を税として君主に差し出すことを求められた。この制度は、対象となる家々の間で「血で払う税」として恐れられた。

 15世紀初めから17世紀の終わりまで、オスマン帝国の支配地域では役人がキリスト教徒の少年たちを定期的に徴集し、イスラム教に改宗させた上でスルタン(君主)に差し出した。

 少年たちは、国のために工房や農場、建設現場などで働きながら、5〜8年の軍事訓練を受ける。トルコ、アクデニズ大学の歴史学者ギュレイ・イルマズ氏は、「彼らは軍の土台でもありましたし、帝国の行政を担うエリート官僚の大半がこうした少年たちから育成されていました。徴集され、行政官になるための特別な教育を宮殿で受けていたのです」

 少なくとも、少年たちは奉仕と引き換えに一種の免税にあずかっていた。「選ばれた少年たちは、健康なクリスチャンの成人男性全員に課せられた人頭税(ジズヤ)を免除されていました」とイルマズ氏は言う。

乳房税(インド)

 あらゆる税の中でも最も変わっているのが、インド、ケララ州の君主がかつて行っていた乳房への課税「ムラカラム」だ。下層階級の女性が人前に出る場合、胸を覆いたければ税を払わねばならないという屈辱的な制度で、貧しい女性たちにとって金銭的負担となった。

 この「乳房税」が呼び起こした1人の女性の抗議行動は、今や伝説となっている。確かな証拠は乏しいが、彼女の地元である同州チェサラの町では今も頻繁に語られている。約200年前、税を払えなかったナンゲリという女性は乳房税に憤り、自身の両方の乳房を切り落として差し出し、収税吏を仰天させたという。彼女自身はこの傷のため命を落としたが、これがきっかけとなって乳房税はやがて廃止されたと伝わる。

「生涯免税」をかけたアイデアコンペ

 インドのマウリヤ朝(紀元前321〜185年ごろ)では、アイデアを競う大会が毎年開かれ、優勝者は税を免除された。「政府は、国政に関する問題の解決方法を国民から募っていました」とシャラーチ氏は説明する。「ある人の解決策が選ばれて実施されれば、以後その人は一生税を払う必要がなかったのです」

 ギリシャ人の旅行家・著述家のメガステネス(紀元前350〜290年ごろ)は、著書「インド誌」で、この制度を驚きをもって記している。

 税制改革の取り組みは大抵そうだが、この仕組みも完璧とは程遠かったとシャラーチ氏は指摘する。「この制度の欠陥は、一つの問題を解決したら、さらに解決しようという意欲が起きなかったことです」

マトリクラ・デ・トリブートス(アステカ王国)

 15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎えたアステカ王国の富と力の源泉は税収にあった。アステカ王国の徴税システムを研究した歴史家のマイケル・E・スミス氏によって、アステカ王国は、非常に複雑な徴税システムを持ち、統治機構のあらゆるレベルでさまざまな物品が税として納められていたことが明らかになっている。

 誰が何を納めたかなど細かく記録が残され、その多くが今も残っている。中でも有名なのが「マトリクラ・デ・トリブートス」という納税記録だ。毎年どれだけのジャガーの毛皮、宝石、トウモロコシ、カカオ、ゴム製のボール、金の延べ棒、ハチミツ、塩、織物が納められたか、色鮮やかな象形文字で描かれている。

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