海が近く、年中温かくて雨が少ない和歌山県有田川町は古くから続くみかんの名産地。見渡す限りのみかん畑の中に佇む〈Nomcraft Brewing〉は2019年に誕生したクラフトビールの醸造所だ。
〈Nomcraft Brewing〉が入居するのは、元保育園をリノベーションした複合施設〈THE LIVING ROOM〉。
メンバーは「シセロン」というビールソムリエの国際認定資格を持つシカゴ出身の醸造長アダムさん、有田川に移住して18年のイギリス人ギャレスさん、ドイツの醸造・精麦マイスターの資格を持つドイツ人のマークさん、イギリスで研鑽を積んだジュンヤさん、そして海外生活のなかでクラフトビールに出合い〈Nomcraft Brewing〉の創設に関わることになった金子巧さん。実に国際色豊かな顔ぶれであることに加えて、全員が移住者だ。
左から右に、代表の金子巧さん、有田川町に移住して18年のギャレスさん、醸造長のアダムさん、醸造・精麦マイスターの資格を持つマークさん。
〈Nomcraft Brewing〉のクラフトビールはホップにフォーカスしたアロマ豊かなアメリカンスタイルの味わいが特徴。また、和歌山県が都道府県別・国内生産量1位を誇る有田みかんや、同じく国内生産量1位を誇るぶどう山椒といった和歌山・有田川町ならではの農作物を使用した香り高いビールなど、創業以来300種類のビールを生み出してきた。
(写真左)軽快な飲み心地の「Nomcraft Lager」。(写真右)ホップとアロマの苦味をしっかりと堪能できる「Nomcraft IPA」。
醸造に欠かせない水は、世界遺産高野山と同じ水系に属す伏流水を使用。「プレーンな水は、あらゆるスタイルのビールの可能性を最大限に引き出す麦汁へとデザインすることができます。それに和歌山のいろんなフルーツやスパイスの風味をきれいに引き出すことができるんです」と金子さんは言う。
和歌山でアメリカンスタイルのビールが生まれた理由なぜ和歌山でアメリカンスタイルのビールを追求するのか。その背景には有田川町が取り組んできた地域住民を主体とした地方創生のプロジェクトがある。
有田川町は豊かな自然を有する一方で2040 年までに20歳から39歳の若年女性の数が半分以下に減ることが予測される自治体だ。
有田川周辺の山の斜面はみかん畑で覆われる。平地も見渡す限りみかん畑が続く。
そこで町職員と住民が主体となって「女性たちが住みたいまちづくり」を掲げ、「全米で住みたいまちNo.1」のポートランドをお手本とする住民参加型のまちづくりのプロジェクトが2015年から始まった。プロジェクトでは有田川町からプロジェクトメンバーがポートランドに視察に行くなどして現地と交流を深めていた。その頃ちょうどポートランドを旅していた金子さんは、有田川町のプロジェクトメンバーと出会った。
「当時の僕は、自分の故郷以外に定住したことがなかったので、まちづくりについて深く考えたことはなかったんです。だから、わざわざポートランドまで来ている有田川町ってどんなまちで、どんな人が暮らしているんだろう、って有田川町に興味が湧きました」と金子さん。金子さんは日本に帰国した後、有田川町を訪ねてみることにしたそう。
その頃、有田川町のまちづくりのプロジェクトでは、使われなくなった田殿保育園をリノベーションして別用途に活用するというプランが検討されていた。
また、クラフトビールが好きで、いつか日本でクラフトビールの醸造をしたいと考えていたアダムさんは、大阪の百貨店で有田川町の人々がイベント出店していたところに出会い、有田川とコンタクトを取るようになった。
醸造長を務めるアダムさん。
「有田川町はみかんや柑橘類、それに山椒などビールの副材料として相性がいい柑橘類やスパイスがたくさんとれる。クラフトビールをつくるのにはすごくいい場所ですし、山も海も近くて景色がいいから、ビールを飲むのにもロケーションがいい。この保育園跡をビールの醸造所にしたらすごく素敵じゃないか、というアイデアが膨らんでいきました」とアダムさんが言う。
ポートランドといえば、市内に70以上のクラフトビールの醸造所がひしめくクラフトビールのメッカ。ポートランドをお手本とするまちづくりを実践する有田川町と相性がいい。
このアイデアをプレゼンするタイミングでたまたま有田川町に滞在していた金子さんが通訳を務めることになり、そのままこのプロジェクトに参加することになった。
「カナダを旅していたときは醸造所で働いていましたし、ちょうどクラフトビールに興味を抱いていたので、このプロジェクトがとても楽しそうに見えたんです。何より、そのときに出会った有田川町の人々が親切でオープンだったことも大きいです」と金子さん。
プレゼンの結果、アダムさんらのアイデアが採択され、2018年8月にリノベーションを終えた保育園は複合施設〈THE LIVING ROOM〉としてスタート。その一角を醸造所に改修して、2019年5月に〈Nomcraft Brewing〉は初声をあげた。
〈Nomcraft Brewing〉の醸造所の隣にあるタップルーム〈GOLDEN RIVER〉では、できたてのクラフトビールと、ハンバーガーなどのアメリカンフードを楽しめる。
〈THE LIVING ROOM〉には、〈Nomcraft Brewing〉のほかにも彼らのビールが飲めるタップルーム〈GOLDEN RIVER〉とゲストハウス〈TADONO the bedroom〉、パン屋〈GRAND AVENIR〉などが入居し、地元の人を中心に他府県からも人が集う人気の場所になっている。
ゲストハウス〈TADONO the bedroom〉はビールを飲んだ後ゆっくり宿泊を楽しみたい人におすすめ。
もっちり、しっとりとした食感のパンが人気の〈GRAND AVENIR〉。
オクトパスキングが第1位を受賞〈Nomcraft Brewing〉が誕生してから5年。和歌山県内では唯一の全員移住者かつインターナショナルなチーム構成や保育園跡を醸造所にしているなどの話題性も手伝って、〈Nomcraft Brewing〉のビールが知られるようになるにはそう時間はかからなかった。地元和歌山県下のレストランやバーはもちろん、卸先は全国にまで広がる。
〈Nomcraft Brewing〉のオフィスの一角はボトルショップとして、直売や量り売りも行っている。
多くの人を魅了する秘訣について金子さんはこう話す。
「創業当初から僕たちがビールをつくるうえで、大切にしている3つのモットーがあるんです。それは挑戦、改善、楽しむこと」
おいしいクラフトビールをつくり、広める。「NOM文化(飲む文化)を広めたい」と金子さんは話す。
クラフトビールは小規模の生産体制であるブリュワリーが多く、原料や醸造方法は日々新たな手法が生み出されている。
「たとえば、モルトのデンプンを糖に変える(糖化)の温度やホップを投下するタイミングの温度、水のPHや原料の比率を変えるなど、ひとつのビールでもレシピには無限の組み合わせがあります。僕たちはおもしろいと思った素材を取り入れて新しいレシピにどんどん挑戦していますし、一度つくったビールでももっとおいしいビールにするにはどうすればいいか、いつも改善に改善を重ねています」
フレーバーに使う柑橘も、これまで有田川町産の温州みかん、八朔、きよみ、せとかをはじめ隣の有田市のレモンやライムなどさまざまな種類を試してきた。
「みかんがとれる季節は、地元の人とあいさつするたびにみかんを手渡されるよ。畑や時期によっても味が違ってくるから、何がどんなビールに合うのかいろいろ試すことができる。アメリカのクラフトビールでもグレープフルーツやレモンはフレーバーとして以前からよく使われているけれど、何といっても、この選択肢の多さは有田川ならでは」とアダムさんは話す。
〈Nomcraft Brewing〉は2024年2月に開催されたクラフトビールの品評会「Japan Brewers Cup 2024」に出場し、IPA部門で「オクトパスキング」という銘柄が第1位を受賞。実は昨年ファイナルに残ったものの、惜しくも入賞できなかった。改良に、改良を重ねた結果、今回の1位に結びついた。
発酵前のタイミングでホップを添加するディップホップ製法を採用し、豊かなフレーバーが特徴の「オクトパスキング」。(写真提供:Nomcraft Brewing)
そして一番大切なことについて、金子さんはこう話す。
「クラフトビール醸造という仕事を心から楽しむことです。僕たちが楽しんで向き合えば、自然と周囲の人たちもクラフトビールを楽しんでくれると信じているんです」
この言葉の通り、醸造所内は英語や日本語が飛び交いフレンドリーで和気藹々とした雰囲気に溢れている。
タンクを覗き込み、醸造の様子をチェックするアダムさん。
「毎回醸造のたびに、新しいことにチャレンジして創り上げていく。それがすごくワクワクする」と語るアダムさん。彼らは日本全国のブリュワリーとも積極的にコラボをして新しいビールに日々チャレンジしている。どんな風をも味方につけてしまう強かさを持っているようだ。
おいしいビールをつくって、より多くの人に届ける「クラフトビールでまちづくり」というビジョンを掲げて誕生した〈Nomcraft Brewing〉。
「僕たちのまちづくりのスタイルはとてもシンプルです。それは、おいしいビールをつくって、より多くの人に届けること。今回『Japan Brewers Cup 2024』に応募したのも僕たちと、有田川町のことをもっと広く知ってもらいたいと考えたからです」
IPA部門では優勝したものの、〈Nomcraft Brewing〉はある課題を抱えているという。
「創業以来、保育園の給食室をリノベーションして醸造スペースにしているのですが仕込みに使っているタンクが小さいので毎日フル稼働で仕込んでも、生産量がニーズに追いついておらず全国のお取引先様に納品をお待たせすることも多いです。ということは、“ビールを通してまちのことを知ってもらう”という僕らのスタイルのまちづくりがまだまだできていないってことだなと思うんです」
醸造では麦を粉砕して麦芽(モルト)にし、お湯を加えて麦汁をつくるのだが、この作業を行う仕込みタンクは、500リットルまでしか仕込めない。ここ数年、少しずつタンクを増設してきたが釜をフル稼働させても年間で生産できるのは7万リットル。また保育園の給食室をリノベーションした醸造スペースは増設したタンクですでにいっぱいの状態。まだ自分たちのビールを飲んだことのない潜在的な顧客層にビールを届けるには、現状の設備では不十分だ。
創業以来、少しずつタンクを増設してきた醸造所。
そこで7月からは醸造所とオフィスを大規模にリノベーションして生産体制を整えることにした。タンクの容量と数を増やして、原材料を備蓄するスペースも拡張する。リノベーション後は、年間生産量が20万リットルに増える。現状の約3倍だ。
これから進む道「まだ日本全国のお客さんにすら僕たちのビールを届けられていないですけど、量産体制が整ったら今年はアジアにもテスト的に輸出したいなと思います」と話す。
大掛かりな工事のため、リノベーションにかかる費用はかなりの額だが一部は補助金やクラウドファンディングを活用して募る。
そして品評会で1位をとったIPAに、ビールと相性抜群の柑橘を用いたビールを仕込んで日本で唯一無二のビールをつくり、今年はアジア最大のビール品評会「2024 Asia Beer Championship」にチャレンジするという。また来年は世界中の醸造所が頂点を目指す「2025 World Beer Cup」にエントリーする予定だ。
「僕たちのビールをきっかけに、和歌山と有田川を知ってもらえたらこのまちを訪れたいと思う人も、きっといる」と金子さん。
「クラフトビールシーンを超えてイベントやトラベルなどほかのジャンルとクロスオーバーしていくのもいいよね」とアダムさん。
有田川の魅力をギュッと詰め込んだゴールドに輝くビールが世界にどんどん羽ばたいていく。そんな様子が見えるような気がした。
information
Nomcraft Brewing
住所:和歌山県有田郡有田川町長田546-1
Tel:070-4211-5114
Web:Nomcraft Brewing
ECサイト:NOMCRAFT BREWING ONLINE STORE
writer profile
Aya Hemmendinger
ヘメンディンガー綾
へめんでぃんがー・あや●大阪生まれ。出版社勤務等を経て2012年よりフリーランス。核融合からアートまで幅広い分野で執筆。紀伊半島南部の隠れた名所をフィーチャーしたフォトブック『南紀熊野Route42国道42号線をめぐる旅』(青幻舎)を上梓、和歌山愛が溢れて2022年から和歌山に移住。築80年の古民家をセルフリノベしたお宿「バカンスの家」も近々オープン。
photographer profile
Itsuko Shimizu
清水いつ子
しみず・いつこ●和歌山県出身。フォトグラファー。細々と撮り続けて20年。雑誌やwebを中心に、旅と日常、食、ライフスタイル、手しごとなどを撮影。2009年にUターン。旅好きのインドア派。金継ぎ歴15年。@itsukophoto