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Vol.28 「和のくらし」おもてなしスタイルは・・・自然との共生
和のコンセプトデザイナー/ 廣瀬輝子さん

  • 2014年4月18日
和のコンセプトデザイナー/ 廣瀬輝子さん

和のコンセプトデザイナー/ 廣瀬輝子さん

Profile
千葉県生まれ。10代‐友禅染めの工房に弟子入り。文様、色、植物の研究を始める。20代‐北里研究所役員秘書を経験する中で、植物の知識が豊富だったことから東洋医学の権威であった大塚敬節先生らから知遇を受け、東洋医学、東洋思想の知識を学ぶ。30代‐着物の文様研究をする中で、服飾業界のプロデュサーだった夫と知り合い結婚。海外からも訪れる来客へのもてなしスタイルが話題となり、メディアの取材を多く受けることとなる。
1985年 生活演出研究所を主宰、2005年「日本の文様に込められた意味」、「飾る歳時記」、「あなたは日本の生活文化を語れますか」等の教材を開発。「和道」原論作成を目指して現代人間科学研究所、飛岡健先生に師事し、研究に専念。2007年「和道」を創始。

 

 今回ご紹介する廣瀬輝子さんは、京都、奈良の神社仏閣に縁の人々を一門に持つ。政財界人との往来を多くした祖父母の影響で、日本の伝統行事に触れ、自然と親しみ生活を美しく飾る知恵を身につける。結婚後、夫の仕事の関係で国内外から賓客を招き、もてなしの経験を積み、このもてなしのスタイルが話題となる。
 その後、現代にふさわしい和の生活作法を指導したり、教材開発を行い、様々なところで活躍。学校などの教育現場でも伝統を現代に生かすテーマとした講義を行ってきた。そして2014年4月、日本人の生き方に光をあてた本『日本人のくらし「基本のき」』を出版。その本に登場する「和の子」って・・・。

手づくりオモチャの中で

手作り人形の雛飾り?
手作り人形の雛飾り?
「神楽鈴の起源となった桐の実」を活かした正月飾り
「神楽鈴の起源となった桐の実」を活かした正月飾り
 廣瀬さんは子供の頃、病弱だったので小学校4年位までは家庭学習が多く、両親の元で、読み書き(絵を含む)そろばん、今でいう自然学習をしていました。また、馴染みの料亭に母親が頼み込んで、野菜洗いなどの下働きをさせてもらうこともあったそうです。
 「母は和歌をたしなみ、床の間という小さな空間に掛け軸、庭の花、身近にある見慣れた道具などを取り合わせる“暮らしの遊び”をささやかな楽しみとしていたようでした。今振り返ると、母にとって季節を飾ることは歌作りの延長線上だったのかもしれません。私が生まれ育ったのは戦後間もない頃で、物が豊かではない時代でしたから、何もかもが両親の手作りでした。父は図案家、今でいうデザイナーです。器用だったことから、家の中は丁寧な手仕事で甦った生活用具であふれていました。おもちゃはあまり買ってもらった記憶がなく、多くは父の手作りでした。抱き人形は不要になった父のラクダ色の下着、私の服を作った残り布、帽子、毛糸など有り物を使って両親が共同作業で作ってくれました。
 両親の生き方を見て育った私は、『輝子の玉手箱』という名の蓋が開く茶色の大きな皮鞄に不要になった美しい布裂、ボタン、壊れた髪飾り、貝殻、木の実や種、包み紙、金色に赤い星付のビール瓶の蓋などを入れ、この鞄を大事にしていました。大人が見ればガラクタにすぎない物の集まりなのに、美しいものをたくさん集めた玉手箱を時折開いては、中味を取り出して並べ『今度はどんな素敵なものを作ろうか』と考えるだけでワクワクしたものです。こうしたもので何を作ったのかは記憶になく、私の作った物に周囲の大人たちは『子供が作った物とは思えない』と驚いていたことだけは覚えている」という廣瀬さん。


友禅作家の道へ

花  「『公立大学に入れる学力がなければ女の子は進学する必要はない』というのが両親の方針で、学びたい大学は芸大以外にない」と思っていた廣瀬さんに知人の紹介で、友禅作家のもとに弟子入りすることに。
 「美しいものが好き、物を作るのが好きというだけで入った世界だったが結構面白く、3年位経った頃、女優のグラビアページを飾る着物などを手掛けさせてもらえるようになっていました。
 一方、この世界に足を踏み入れたことがきっかけで、伝統文様の世界に深く興味を持つようになり、古い作品や、手の込んだ高級な作品には、文様として描かれている植物、動物、器物などには何かが象徴され、人間がより幸せに生きられるようにとの願いが込められている。また、ちょっぴり皮肉を込めた寓意や、怪しげな意味合いなど、文様の謎解きは楽しいものでした。こうした探求は和歌の世界に繋がり、先人たちの自然との向き合い方、繊細さ、美意識の高さ、遊び心にますます魅かれるようになっていきました。この頃、図書館や博物館にはよく出かけ、様々なジャンルの工芸品の文様の精巧さ、精魂かけた職人の手仕事を丹念に鑑賞しながら、文様に込められた謎を読み解く遊びを随分楽しみました。今考えれば、この博物館通いで、本物に触れ、匠の世界で生きた人たちのひたむきな生き方、物に宿る多くの人の魂を少しずつ頂いていたような気がします」

 廣瀬さんは、友禅工房での仕事は結構楽しんでいましたが、気持ちの動かない結婚話を持ち掛けられ、居づらい状況となってやめることに。その後、北里研究所の役員の秘書におさまった。工房時代、草木染の研究をしていたことや幼児期には母親指導の自然観察の経験があり、いつの間にか植物の名前や性質、花の咲く時期、採取時期、種の形などにかなり詳しく、植物の知識が豊富だったことから、時折、大先生たちからお声がかかり、東洋医学の世界の一隅である宇宙と気、心と体、陰陽、食べ物との関わり等を知るようになったという。

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