このコンテンツは、地球・人間環境フォーラム発行の「グローバルネット」と提携して情報をお送りしています。
最近耳にすることが多くなった「エシカル」。それは一体何を意味しているのか、そしてなぜ人びとの関心を集めているのだろうか。
「エシカル」は非常に多義的で定まった定義はないが、一般には環境や社会に配慮する意識や行動を表す言葉として使われている。
語源はギリシャ語のエトスにあり、エトスは「慣習」を意味する。従って、元をたどれば「慣習に則している」ことを表す言葉である。その訳語の「倫理」も、「倫(人のまとまり)」の「理(ことわり、原理)」を意味している。
すなわち、洋の東西を問わず、人が集う社会において、その構成員が醸成してきた慣習ないし規範にのっとって行動すること、それがエシカルであり倫理的であると言える。(より正確には、社会規範自体は道徳=モラルで、倫理はその本を成す原理、哲学を意味する)。
では、エシカルに人びとが関心を寄せ始めたのはいつ頃か、そしてなぜなのだろうか。「エシカル先進国」の英国では1980年代にさかのぼるのだが、そのきっかけはサッチャー首相の登場にあった。
彼女は「英国病」を退治すべく、社会保障の削減や規制緩和、民営化などの「新自由主義」政策を強力に推し進めた。その結果、英国経済は息を吹き返したものの、貧富の格差といった社会問題や(地球)環境問題は悪化していった。
規制を緩めて企業に自由な活動を許すばかりで、社会・環境問題に向き合おうとしない政府を前に市民が立ち上がり、公的規制に代わる歯止めとして「倫理性」を企業に要求し始めたのである。
1990年代に入ると、新自由主義は、共産主義の敗北とグローバリゼーションに乗じて世界を覆うようになった。行動の自由を得た企業は、利潤の最大化を極限まで追求し、環境・労働規制が緩い国を目掛け進出していった。
グローバル企業を誘致したい途上国側でも自国の規制などを他国より切り下げる「底辺への競争」が始まった。途上国だけではない。自国企業の転出を防ぎたい先進国も「参戦」した。派遣労働者法制定をはじめとする日本の「柔軟」な労働政策がその良い例だ。
こうして、「強欲」資本主義は、不安定な労働、貧富の格差、自然破壊などの社会・環境問題をグローバル化させ、悪化させていった。
その強大な力の前に国際社会は非力だった。国際労働法や環境法はあっても、牙(強制力)を欠いていたため実効性に乏しかった。
それだけではない。新自由主義に染まった先進諸国は1995年に国際貿易機関(WTO)を創設し、環境や労働者を保護するための公的規制を自由貿易の障害と見なして排除する強制力をWTOに与えた。
世界の人びとが相互に共生し、環境とも共生していくための規範や慣習を強めるどころか、弱めることに力を注いできたのである。こうして国際社会は、「万人の万人に対する闘争」が繰り広げられる荒野へと、その姿を変えていった。
そうした状況に異を唱え、政府に代わって社会(労働者や小規模生産者、貧困層、障がい者などの弱者)や環境を守ろうと、市民自らが行動を起こしたのが今日のエシカルなのだが、その今日的エシカルにはどのような特徴ないし意味を見出すことができるだろうか。 第一に、国境を越えた空間的な広がりである。今日の企業はグローバルに活動し、その影響も世界の隅々に及ぶ。従って、自国の社会・環境だけでなく、企業が活動する遠い他国の社会・環境への影響にまで目を光らせる必要がある。
第二に、世代を超えた時間的な広がりである。環境破壊が子々孫々にまで害を与え、貧困も代々「相続」されていく中で、企業活動が将来世代に与える影響にまで目を向ける必要がある。
第三に、自覚ないし自省という内面的な広がりである。消費者運動が燃え広がった1960年代、悪質な製品やサービスの被害者だった消費者は、企業の非倫理性を糾弾するだけで良かった。
しかし今日、企業が非倫理的に調達してきた製品を無自覚なまま買えば、結果として倫理にもとる企業の行いに消費者は加担することになる。非倫理的な製品と知って買うなら「共同正犯」とすらいえる。つまり、今日の消費者は、自分自身が「加害者」とならないよう、自覚的に行動する必要があるのだ。
そこから、権利を主張するだけでなく、自らの購買行動が他者に悪影響を与え得ることを自覚して責任ある消費をする「消費者市民」という考え方が生まれてくる。エシカルな消費者が「自覚的消費者」と呼ばれる所以でもある。
今日のエシカルは、消費者が自らの消費行動の倫理性を自問し自省するもの、自らのライフスタイルを問い直すものでもあるのだ。
倫理的という言葉が日本にありながら、横文字のエシカルを使う理由もそこら辺にあると思われる。
つまり、倫理的という言葉では十分表せない今日的、動的な意味を表現したい。あるいは、新自由主義ドクトリンの下、法や規範より力が支配する「西部劇の舞台」と化したグローバル社会に、新たなエトスを市民の力で築き上げるという「創造性」を含意させたい。そのためにエシカルという言葉を使っているように思われるのだ。
もう一点。ともすると懲悪的でネガティブな響きのある「倫理的」に比べ、「エシカル」には勧善的でポジティブな響きがある。
英国で1980年代に起きたエシカル行動がボイコット中心だったのに対して、今日は倫理的な企業の製品を積極的に買う「バイコット」が主流である。エシカルな動きを牽引しているのが20代、30代の若い世代であるのも、彼らがエシカルに「ポジティブ性」や「未来」を感じ取っているからだろう。
このように「エシカル」は、従来とは違う生き方、選択肢を提示しているといえる訳だが、そうだとして、エシカルは選択肢にとどまってしまうのだろうか。
確かに、エシカルに対しては、「軽い」、「上滑り」といった冷ややかな見方がある。しかし、エシカルは本来道徳哲学を意味し、人や社会のあり方を根源から問うものである。テロの温床ともなる貧困や社会的分断が蔓延し、環境が悲鳴を上げる今日のグローバル社会にあって、そのあり方を根底から問い直し、規定し直すエシカルな意識と行動は、選択肢を超えた必要不可欠なものと言えよう。
そのエシカルを日本社会に広め、定着させるべく、昨年5月に日本エシカル推進協議会(JEI)が発足した(筆者はその副代表)。
グリーン購入とフェアトレードのネットワークが中心となって設立したJEIには、環境系・社会系のNPOや企業、教育・研究機関から120名余が参加している。
JEIにはまた、次の四つのワーキンググループが置かれている。
a)2020年エシカル東京五輪の実現
b)エシカル購入・調達ガイドラインの策定
c)エシカルチェックとエシカル度評価法の開発
d)エシカルファッション・アワードと包括的振興策の提言
このうちa)は、2020年の東京五輪を、環境に加えて、基本的な人権や社会的な影響にも配慮したエシカル五輪にしようとするもので、昨年8月には、東京五輪競技大会組織委員会と東京都に対して、以下を柱とする提言を行った。
(1)エシカルな調達と運営
(2)エシカル・スタンダードの確立
(3)日本のエシカルな伝統の活用
(4)社会的な絆の強化と伝承
(5)東京のエシカルタウン化とエシカル文化の全国への普及
JEIは、エシカル五輪の実現を、国内に広くエシカルを普及するための一里塚と位置付けている。五輪を契機に東京をエシカルタウン化し、首都から全国へとエシカル文化の輪を広げ、日本社会に根付かせるのが長期的な目標である。
その目標が実現できるかどうかは、幅広く市民セクターの力を結集し、新自由主義の荒波に打ち克つ全国的な運動へと発展させることができるか否かにかかっている。