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【漫画】阿弥陀如来が全ての人を救うのはなぜ?「命の善し悪しを決めることはできない」/ヤンキーと住職

  • 2022年11月22日
  • Walkerplus

仏教やお経と聞くと、なんとなく堅苦しいイメージを抱く人も多いのでは?現役の僧侶(浄土真宗本願寺派)である近藤丸さん(@rinri_y)が描く漫画「ヤンキーと住職」は、仏教が大好きなヤンキーと少々頭でっかちな住職とのやりとりから、仏教の教えを伝える漫画。読者からは「興味深い」「ためになった」「書籍化してほしい」との声が多く寄せられている。

ウォーカープラスではそんな「ヤンキーと住職」の中から特に印象的なエピソードを厳選し、近藤丸さんのインタビューと共にご紹介。今回は、ヤンキーの悲しい過去が明らかになる。

バイクで檀家の家へ向かう途中、事故を起こしてしまった住職の代わりに、自分がお経をあげに行くと言うヤンキー。「お経を待っている人がいるならそれを届けたい」と、過去にお経に救われた経験を語り始める。

■亡くなり方で、生き方の善し悪しを決めることはできない
実は、親友のタクヤを事故で亡くしていたヤンキー。「俺が誘わなきゃもっと長生きしたよなぁ」と後悔を抱えていた彼は、タクヤの家に来ていたある僧侶に「何でこんな不公平なんだ」「こんなの悪い死に方だ」と問いかける。すると僧侶は「亡くなり方で命を決めてはならないんじゃないかな?彼の命の善し悪しを決めることなんてできないんですよ…」と答える。では仏教では「命の価値」を、どのようにとらえているのだろう。近藤丸さんに聞いてみた。

「漫画のこの言葉は、身近な人が亡くなりその事で苦しんでいる人が目の前にいる状況で、僧侶の口から出てきたということが大切です。適当に議論するための言葉として使われれば、『命の価値は平等』という言葉も虚しいものになってしまいます。

基本的に『命』を『価値』というモノサシで見ないということを、仏教は教えていると思うんですね。『命を平等に見る』というのは、仏さまの見方なんです。私たちの普段の見方からは、このような視線は出てきません。何でも価値や意味を付けてしまっているのが、私たちのものの見方です。しかし、その見方が痛ましいと言っているのが、仏教の教えだと思います。何でも意味と価値で測っていく見方自体に、何か問題性はないかと教えられます」

「若くして亡くなった人も長生きした人も、命の価値は平等です」などの答えが返ってくると思っていたので、正直驚いてしまった。では「命でさえ意味と価値で測ってしまうことへの問題」とは、具体的にどのようなことを指すのだろう。

「私たちは人と比べて自分が劣っていると感じると、『こんな自分は価値がない』と思ってしまう。しかし、そんなことを言っている間に、この命は終わるかもしれない。今日死ぬかもしれない命を生きています。このような厳粛な命の事実から見れば、今ここに生きているという事実があるだけです。その生きていることの価値を、価値づけしてモノサシで測ることは、ずっと生きているつもりの私たちから出る、ある意味で『おごった考え方』ではないでしょうか」

近藤丸さんは、ブッダ(仏)の説かれた経典の一説を教えてくれた。

「『さとりの国の池にはとても立派な蓮の華が咲いている。青色の蓮華れんげは青い光、黄色の蓮華は黄色い光、赤色の蓮華は赤い光、白色の蓮華は白い色の光を放っている。一輪一輪ちがっており、それらはどれもそのまま香り高く何とも美しく素晴らしい。さとりの国はそのような徳の高い、言葉を超えた素晴らしさで満ちあふれている。(『阿弥陀経』より意訳)』

ブッダ(仏)の眼は、慈しみの眼・平等の眼。その眼で見ればどんな命もそれぞれに光り輝く平等なもので、それぞれに光り輝いているということです。私たちは縁によっては今日・明日亡くなるかもしれない命を生きています。縁によって長生きする人もいれば、赤ちゃんの時亡くなる人もいる。そして、それは縁でしかない。長く生きたから価値がある・短かったら価値がないというのは人間の思いから見た見方です。

もちろん、どんな命も必死に『生きよう、生きよう』としている。ですから、出来るだけ長く生きることを願うのは当たり前ですし、誰もが生き生きと生きていける社会を目指すべきです。そのことを否定するものではありません。しかし、縁によって生きている命の事実を見つめるとき、『短いから価値が無かった…』としない見方が、仏教の中で語られてきました」

■選ばず見捨てない阿弥陀如来は、悪人さえも救ってくれるの?
仏教ではどの命も厳粛なものとして受け止められていて、なかでも阿弥陀如来という仏さまは、救う命も死に様も選ばないという。では阿弥陀如来は、例え極悪人であっても救ってくれるのか疑問が生じる。

「阿弥陀如来という仏さまは、『どんな人でも救いたい』という願いを持ち、『一回でも念仏を称えたらどんな人でも必ず救う』との誓いを立てられました。その救済の対象には限りがありません。どんな悪人でも救いたいという仏さまですが、ここでいう悪人というのは、『悪を作ってしか生きていけない者』という意味です。つまり誰かと言うと、悪人とは自分(私)のこととなります。『あいつは悪だ』と他の人のことを指す言葉ではないのです」

念仏をとなえた人を必ず救うという、阿弥陀如来。そもそもなぜ、このような誓いを立てたのだろう。

「自分の力ではどうしても修行したり、良い行いを積み重ねたりすることができない人(私)がいるから、このような誓いを立てたのです。自分の力で悟れない人を救わずにいられないというのが、阿弥陀如来のお心なのです。浄土真宗の文脈では、『悪を作るつもりが無くても、悪を犯さざるを得ないのが人間である』というのです。善をしようと思っていても、思うままに善ができないものも悪人ですね。私たちは日々、悪を作っている自覚はないと思います。しかし、何気なく生活をしている中で環境を破壊しているという事実がある。毎日、鳥や豚や牛や魚やいろいろな命を頂いて生きている。そうしなければ生きていけないですし、時にはそれが当たり前となり感謝の心すら無くしているのが、私たちの生活のありようです。

仏教では人間の存在を、深く見つめています。状況によって何をするか分からなかったり、悲しいことがあってもすぐに忘れてしまったりする私たちの在り方には、深い意味での悪が含まれているというのです。そういう視点からすると、『悪いことしても救ってくれるからOK』というのは、浅い人間観から発せられた言葉ではないでしょうか」

■誰も見捨てない仏の教えに出合った時が、自分の生き方を見つめ直す時
私たちは生きている以上、悪を犯さざるを得ない。だが思うがままに振る舞い、平気で悪を積み重ねてもいいということでは当然ない。近藤丸さんは、仏さまの言葉が自分の問題として本当に響いた時、人は生き方を見つめ直すのではないかという。

「先輩の僧侶から聞いた話ですが、ある若い僧侶が、浄土真宗の教え、阿弥陀如来の話を聞いて次のように言ったそうです。『どんなあなたでも救うと言われたとき、今の自分のままでいいのかという問いが生じた』。悪を作ってしか生きていけず、生きていることが当たり前になり、おごってしまう私たちです。しかし、そのことを悲しみ、私たちを救いたいと願う仏さまの言葉に触れるとき、自分の問題性に開き直るのではなく、少しずつでも自分をみつめ、自己の生き方を問い直すという方向性も生まれるのかもしれません」

さらに近藤丸さんは、浄土真宗の教えについても深く教えてくれた。

「浄土真宗の教えでは、私たちに求められているのは念仏し、仏さまの教えを聞いていくことだけです。生き方は救いの条件にはならないのです。だけど、どんなあなたでも救うと言われた時、私たちは今のままでいいと開き直る訳ではないのだと思います。誰をも救いたいと願いを立てた仏さまの想いに触れたとき、自分の生き方が問われることが始まる。浄土真宗ではだからこそ教えを聞き続けて、自分の生き方を見つめ直すことが大切だと言われるのです。

また浄土真宗の場合、仏さまの慈悲を信じることが大切だといわれます。しかし、人間が大いなる慈悲を信じることがどうしてできるかと言うと、大きな慈悲自身が人間に働き、人間の心を転換するからだとされます。自分からそんな慈悲を信じるなんて、できないんだと。なぜなら私たちは、本当の意味で真実を見通す力がないからです。どうしても自己中心的な見方をしてしまい、仏さまの慈悲を信じることができない。しかし、そんな自分の思いを破り大切なことに気づかせる力が、大きな慈悲として働いているのだと考えます。すると自分は愚かであったと分かってくると同時に、ずっと自分を助けようと働いていた仏さまの大きな慈悲があったことも知らされる。こういう論理が浄土真宗の教えの中にあるのです」

「死に方で命を決めてはいけない」という教えに触れ、生き方を見つめ直したヤンキー。私たちも仏さまの教えに触れて命の事実を知った時、「今のままの自分でいいのだろうか?」という問いが生まれるかもしれない。大切なことを気づかせてくれる漫画「ヤンキーと住職」を、これからも楽しみにしたい。

取材・文=石川知京

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