科学者たちは最近、ニシオンデンザメ(Somniosus microcephalus)の全ゲノムを解読して長寿の謎を解く新たな手がかりをいくつか発見し、2024年9月に査読前の論文を公開するサーバー「bioRxiv」で発表した。この発見が人間の寿命を400歳まで延ばすことはないかもしれないが、私たちが健康に過ごせる年月を延ばす魅力的な青写真を示している。
人間の思春期は12歳前後に訪れる。しかし、ニシオンデンザメの性的な成熟が始まるのは100歳を超えてからだ。1世紀も続く子ども時代などSFのようだが、現実に、ニシオンデンザメは地球上で最も長生きする脊椎動物で、その寿命はおよそ400年と推定されている。
このサメは、北極海や北大西洋の極寒の深海に潜りながら毎年約1cmずつ成長し、何百年もかけて巨大なおとなとなる。最大クラスの体長はトヨタのプリウス(全長4.6m)よりも大きく、体重は900kgを超える。
動物はふつうここまで長生きできない。年を経るにつれて、身体機能が低下したり、がんなどの疾患が蓄積したりして死を迎えるからだ。しかし、ニシオンデンザメは、このパターンに逆らっているように見える。彼らは、加齢に伴う疾患を防ぐ遺伝的なツールを進化させているはずだ。
2021年、ドイツのライプニッツ老化研究所(別名フリッツ・リップマン研究所)のバイオインフォマティシャンであるアルネ・ザーム氏は、このサメの長寿の秘密を解明しようと決意した。氏は、単にこのサメのことを知るだけでなく、ハダカデバネズミをはじめとする他の長寿の動物とも比較してみたいと考えた。
「とても長寿の種をさらに長生きさせるような、共通の進化の法則があるのかどうかを知ることができれば面白いと思っています」とザーム氏は言う。
まずは、それまで行われていなかったニシオンデンザメの全ゲノム解析を行う必要がある。そのためにはニシオンデンザメから新鮮なサンプルを採取する必要があるが、水深2100mまで潜る体重1tの魚を捕まえるのは簡単ではない。
このプロジェクトの共同研究者で、デンマーク、コペンハーゲン大学の海洋生物学者であるジョン・ステフェンセン氏は、過去20年間、研究用にニシオンデンザメを捕獲してきた。氏は、「捕獲には、長いラインにサメ用の巨大な釣り針を10本付けたものを使います」と説明する。
釣り針には、悪臭を放つ腐肉の塊を付ける。頑丈なロープとチェーンを組み合わせた仕掛けを使って、数百メートルの深さに餌を沈めると、1匹から数匹のサメを釣り上げることができる。
ステフェンセン氏と漁師たちはグリーンランドの南のフィヨルドでニシオンデンザメを捕獲し、ザーム氏に脳のサンプルを送った。ザーム氏らはサンプルからDNAを抽出し、ゲノムを分析した。
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ゲノムが生物の組立説明書だとすると、DNAは単語で、遺伝子は段落だ。ザーム氏らはこの研究で初めて、ニシオンデンザメの全ゲノム、すなわち説明書の全体を解読した。
その厚さは人間の説明書の約2倍で、2万2634個の遺伝子と約64億5000万塩基対から構成されていた。塩基対はDNAの二重らせん構造の横棒の部分であり、説明書の個々の文字に相当する。
ゲノムを解読した研究チームは、ニシオンデンザメの驚異的な長寿の秘密を探りはじめた。特徴的な要素の1つは、「トランスポゾン」と呼ばれる動く遺伝子の多さだ。トランスポゾンは人間を含むほとんどの生物にあり、自分のコピーを作って遺伝子配列中の新しい場所に挿入できる。
トランスポゾンは遺伝的多様性を生み出すが、遺伝子が新しい場所に移動することで遺伝子配列中のほかの場所に混乱が生じる場合には悪影響を及ぼすおそれがある。「文章の途中にほかの場所の語句をコピー&ペーストして、意味不明にしてしまうようなものです」とザーム氏は言う。
けれどもニシオンデンザメでは、トランスポゾンはより有益な役割を果たしている可能性がある。重複する遺伝子の多くに、DNAの修復に関連する有益な遺伝子が含まれているからだ。
DNAが損傷したままになっていると、細胞内でがんなどの問題を引き起こすおそれがある。研究者は、DNAの損傷が適切に修復され、ゲノムが良好に維持されているほど生物の寿命は長くなると考えているため、ニシオンデンザメのトランスポゾンは、DNAの修復に関わる遺伝子を余分に作ることで老化を遅らせている可能性がある。
研究チームはTP53という遺伝子にも注目している。「ゲノムの守護神」とも呼ばれる、がんの予防になくてはならない遺伝子だ。
ヒトやゾウやクジラなど、多くの動物がTP53を持っている。TP53遺伝子は、腫瘍の抑制とDNAの修復を助けるタンパク質p53をコードしている。TP53は、DNAが損傷した細胞が修復されるまで細胞分裂を停止させ、修復が不可能な場合には細胞を死なせて制御不能に増殖して腫瘍になるのを防いでいる。
ニシオンデンザメでは、TP53遺伝子の塩基配列の一部が、ほかの動物の典型的な機能とは違う働きをもつ形に変化している。研究チームはAIモデルを使って、この変化がp53の構造とDNAの修復方法に影響を及ぼし、寿命を延ばしている可能性があると予測した。
ただしザーム氏は、これはあくまでも予測であり、この変化をもっとよく理解するには、研究室で細胞を使って実験を行う必要があると語っている。
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ニシオンデンザメの長寿の鍵は、科学者たちがほかの動物の長寿の理由を解明する助けとなり、人間にも恩恵をもたらす可能性がある。とはいえ、人間が何世紀も生きられるようになることはない。ザーム氏は、「サメは人間とはかけ離れた動物で、そのシステムも違いすぎるので、直接比較することはできません」と言う。
それでも、長寿の動物と人間を比較すれば、老化のプロセスについての理解を深められる。また、長寿の動物にあって短命の動物にはない遺伝子を調べれば、加齢に伴う疾患の予防に役立てることができる。
「長寿研究の主な目的は、人間の寿命を長くすることではなく、健康寿命を長くすることにあるのです」と、米ミネソタ大学の分子生物学者のポール・ロビンズ氏は言う。
例えば、長寿研究のテーマの1つに、長寿とがんの予防をどのように両立させるかというものがある。ロビンズ氏は今回の研究には関与していないが、人間とサメの長寿に関連する遺伝子には、(TP53の役割の重要性など)重なる部分もあるため、サメのゲノムの研究は、健康寿命を延ばす医薬品や遺伝子治療などの開発のターゲットの特定に役立つ可能性があると言う。
ニシオンデンザメのゲノムは「道具箱に備えておきたい素晴らしいツール」だと言うのは米グロスター海洋ゲノミクス研究所の科学ディレクターで細胞生物学者のアンドレア・ボドナー氏だ。氏も今回の研究に参加していないが、200歳を超えるアカウニなど、海洋生物の長寿について研究している。「長寿の生物は、健康な加齢とがんへの耐性を両立させるさまざまな解決策を見出しているのです」
ニシオンデンザメのゲノムがつくるタンパク質の機能を確認するためには、さらなる研究が必要だ。次のステップでは遺伝子の実際の働きを調べることになるが、これは細胞培養や他のモデル動物に遺伝子を挿入して行える。
ボドナー氏は、「ニシオンデンザメのゲノムが解読されたのは素晴らしいことです。今後の研究に欠かせないリソースとなるでしょう」と言う。「けれどもこれはほんの始まりにすぎません」