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食人の証拠か、疫病の痕跡か、大量の人骨がフィジーで見つかる

  • 2024年4月17日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

食人の証拠か、疫病の痕跡か、大量の人骨がフィジーで見つかる

 熱帯のサンゴ礁に囲まれたフィジー最大の島ビティレブ島は、シュノーケリングスポットとして人気が高い。その海岸から数キロ奥に入った砦跡で、最近になって島の住民が珍しい集団墓地を発見し、2024年2月29日に大量の人骨が掘り起こされた。

 これらはまだ分析されていないが、かつて長い間、部族同士の争いで行われてきた食人儀式の犠牲者ではないかと、地元の人々は考えている。一方、考古学者たちは、麻疹(はしか)の流行で大量死した人々のものである可能性が高いとしている。1875年に、フィジーの王はオーストラリアを訪問した際に麻疹を持ち帰り、王の臣下の3人に1人が命を落とした。

フィジーの成り立ちと白人の来訪

 ニュージーランドの北1600キロに位置するフィジーは、300以上の火山島から成る群島国家だ。現在のポリネシア人の祖先で、ラピタ人として知られる海洋民族が、およそ3000年前にこの地に定住した。後に、西はメラネシアの島々、東はサモアやトンガなどからも人々が移り住んだ。今から1000年前には、フィジーは南太平洋の重要な交易の交差点として発展していた。

 1789年、「バウンティ号の反乱」で有名なウィリアム・ブライ船長が、ヨーロッパ人として初めてフィジーの海岸の地図を製作した。その後19世紀前半から半ばにかけて、米国とヨーロッパの商人や宣教師がやってきた。

 島には、戦いで勝利した者が敗者の力を取り込むためにその肉を食べるという風習があった。そのため、西洋人たちはこの島を「人食い島」と呼び、その風習をやめさせようとした。

 さらに、中国へ輸出するナマコを捕ったり、綿花を栽培する土地を求めて、多くの入植者もやってきた。宗教と経済の激変により、フィジーでは異なる部族間の闘争が増え、英米諸国は肥沃な島々を自分たちのものにしようと画策した。

 1867年、英国人宣教師のトーマス・ベーカーがシガトカ川沿いの高地部族をキリスト教に改宗させようとすると、危機は頂点に達した。族長の頭に触れることは重大な禁忌行為とされていたが、ベーカーはそれを侵して部族の怒りを買い、改宗した7人のフィジー人とともに殺されたと伝えられている。

 遺体はバラバラにして焼かれ、ビティレブの村人らに食べられた。ベーカーの革のサンダルは現在、首都スバにあるフィジー博物館に展示されている。

 ベーカーの死、地元部族の襲撃、さらに2人の白人殺害事件が重なり、白人の自警団が復讐のため島を徘徊するようになった。そのなかには、米国の白人至上主義集団「クー・クラックス・クラン」を名乗るグループもいた。

絡み合った戦争と食人と疫病

 混乱の末、伝統的な生活を維持していた高地の部族と英国人との間で紛争が起こった。英国側はキリスト教に改宗した海岸沿いの部族やほかの白人と手を組んでいた。

 今回大量の人骨が見つかった丘の上のタブニの砦は、高地部族の一派が拠点としていた場所で、海岸から内陸へ約10キロ入ったシガトカ川の湾曲部が見下ろせる戦略的な位置にあった。発掘や口承によると、1800年前後にトンガからの移民がタブニに定住し、族長の家とその他60棟ほどの建物を丘の上に建て、地元の女性と結婚したという。

 1870年代初頭、キリスト教徒の王族であるカコバウ率いる初代統一フィジー政府に対するゲリラ戦で、タブニの村人たちは高地のカイコロ族に味方した。1874年、カコバウはフィジーの支配権を大英帝国に引き渡す協定に署名し、併合を祝うために船でシドニーを訪問した。

 ところが、そこで王とその外交団は麻疹に感染した。島に戻ると、まったく免疫がなかった島民の間でウイルスはあっという間に広がり、約4万人が命を落とした。

 この頃、英国軍とカコバウの勢力はカイコロとその同盟部族を倒すべく激しい戦いを仕掛けた。1876年の戦いでタブニに火が放たれ、反乱軍は高地に追いやられて散りぢりになった。廃墟となったタブニの砦は、やがて深い森に飲み込まれていった。

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タブニ砦を偶然発見

 1980年代、密林となったこの場所を地元の人々が切り開き、考古学者たちは数十棟の家の土台と急な斜面を取り囲む防御壁の跡を発見した。現在ここは地元の部族から政府に貸し出され、国立歴史文化財として観光客に開放されている。

 2024年2月、地元の部族の長が亡くなり、村人たちはその遺体をタブニの最も高い場所に葬ることにした。ところが、墓穴を掘っていたときに、大量の人骨が出てきた。

「掘っても掘っても、人の骨が出てきました。一人の墓でないことは明らかです。骨は全てごちゃごちゃに埋まっていました」。この森を切り開いた地元民の一人で、現在は文化財の管理人をしているラニエタ・ラウラウ氏は、そう話す。

 歴史的な場所に墓を掘るという村人の決定に反対していたラウラウ氏だが、出てきた骨の一部を科学分析のために保存するよう交渉した。残りの骨は再び埋葬された。

 3月に訪れたとき、ラウラウ氏は観光センターの事務所から透明のビニール袋を出してきて、外のピクニックテーブルに見つかった骨を丁寧に並べた。人間の頭蓋、歯がそろった顎骨、そしていくつもの腕や足の骨があった。

 フィジー博物館の上級考古学者エリア・ナコロ氏によると、フィジーではこのような集団墓地が2カ所でしか発見されていないという。どちらも丘の砦に近い場所にあり、発見された遺骨は分析されないまま再び埋葬された。

 一部の骨は、墓ではなく集落を取り囲むように置かれていた。集落に近づこうとする侵略者を追い払うための風習だったと、ナコロ氏は言う。

そして人骨は研究室へ

 タブニに住んでいたのは伝統的な部族だけだったことから、発見された人骨は砦を守っていた人々に殺され、食べられた戦士のものだろうと、ラウラウ氏は言う。「肉を食べて残った骨を共同墓地に葬ったのだと思います」

 ラウラウ氏によると、砦の近くには一枚岩があり、かつて戦の捕虜たちがそこで儀式的に処刑されていたという。フィジーの島々で発見された人骨の考古学的証拠は、古くから食人の習慣があったことを示している。ただしそれは、厳格な儀式のなかでのみ行われていたと考えられる。

 一方ナコロ氏は、発見された人骨について、砦が燃やされる前の1875年の麻疹流行による死者のものである可能性が高いと話す。オーストラリアにあるサンシャインコースト大学の考古学者パトリック・ナン氏も同意見だ。

「19世紀、フィジーの人々は麻疹やインフルエンザへの自然免疫がありませんでした。これが、その時に大量死した人々の共同墓地であることはほぼ確実でしょう」

 特に被害が大きかったのは、子どもたちだった。麻疹の起源は、5000年以上前のメソポタミアの畜牛であり、ヨーロッパ人が到達するまで、南太平洋には存在していなかった。そのため、新たにもたらされたウイルスによって多くの人々が命を落とし、生存者も病気のため体力がなく、死者を適切に埋葬することができなかったと考えられる。

 ナコロ氏は、発見された人骨をナン氏の研究室に送る予定だ。科学分析によって、犠牲者の年齢、性別、死因だけでなく、いつ死んだのかについても重要なデータが得られるはずだ。骨に切り付けられた痕があれば、食人の証拠となる。病気で死んだのであれば、分子分析によって明らかになるだろう。

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