1883年12月、ヘンリー・ラスボーンとその妻クララ・ハリスを悲劇が襲った。
当時夫妻は、3人の幼い子どもたちを連れて米国を離れ、ドイツに滞在していた。ラスボーンは、過去に経験したあまりに衝撃的な出来事が忘れられず、いつかまた同じような恐ろしいことが自分の身に起こるのではないかという不安を振り切れなかったと、周囲の人々は後に語っている。
その衝撃的な出来事とは、1865年4月14日のエイブラハム・リンカーン大統領暗殺事件だ。その日、ワシントンD.C.にあるフォード劇場の大統領専用ボックス席で、ラスボーンとハリスはリンカーン大統領のすぐ隣に座っていた。
だが、ラスボーンとハリスにとって、運命の夜に起こったことは、単なる始まりに過ぎなかった。ラスボーンは、大統領の命を救えなかったという後悔の念に何年も苛まれた。
クララ・ハリスとヘンリー・ラスボーンは、どちらもニューヨーク州オールバニーの名家の出で、親同士が再婚したことによる血のつながりのないきょうだいだった。成人した2人の間柄は恋愛関係へと発展し、婚約をした。
1865年当時、2人はワシントンD.C.に住んでいた。ラスボーンは陸軍将校として南北戦争で最も激しい戦いを何度か経験した後、陸軍のデスクワークに就いていた。ハリスの方は、1861年にニューヨーク州選出の上院議員になった父親のアイラ・ハリスに伴ってワシントンD.C.に引っ越していた。
上院議員の娘としてハリスは、ワシントンの上流社会に身を置き、大統領夫人であるメアリー・トッド・リンカーンと親交を深めた。
したがって、1865年4月14日にリンカーン夫妻がハリスとその婚約者のラスボーンをフォード劇場で上演されていた『われらのアメリカのいとこ』の観劇に招待したのも、何ら不自然ではなかった。
とはいえ、若い2人の招待は最初から予定されていたことではなかった。リンカーンはユリシス・S・グラント将軍と妻のジュリアを招待していたのだが、グラント将軍が辞退したため、別の何人かに声をかけた。
最終的に招待に応じたのが、ハリスとラスボーンだった。当日、4人は午後8時30分にフォード劇場に到着した。
大統領専用ボックス席に座ったメアリー・トッド・リンカーンは、すぐ横に招待客がいるにもかかわらず、夫にもたれかかり、自分の手を握った夫に「ミス・ハリスは何と思うかしら」と尋ねた。これに対してリンカーンは「何とも思わないさ」と返事をしたという。
これが、エイブラハム・リンカーンの最後の言葉だったと言われている。
午後10時30分ごろ、ジョン・ウィルクス・ブースがボックス席に忍び込み、リンカーンの頭部を銃で撃った。
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ラスボーンはすぐに立ち上がり、ブースを取り押さえようとしたが、ブースはナイフを取り出してラスボーンの腕を切りつけた。ナイフがラスボーンの動脈を切断し、その血が婚約者に飛び散った。そのすきにブースは逃げ去った。
ラスボーンとハリスはリンカーンの方を振り向き、大統領が撃たれたと叫んだ。劇場は大混乱に陥り、リンカーンは医師らによって道路の反対側にある下宿屋に運び込まれた。
ハリスはメアリーを落ち着かせようとしたが、ラスボーンの血を浴びたハリスが近づこうとすると、メアリーは「ああ、私の夫の血! 私の愛する夫の血!」と叫んだという。
ハリスはまた、ラスボーンの出血を止めようと腕を縛ったが、大量に失血したラスボーンは意識を失い、ハリスの家に搬送された。しかし、ハリスの助けを得て医師が処置を施したため、一命を取り留めた。
それから約2週間後、ハリスは友人にあてて手紙を書き、事件の生々しい体験を語った。そこには、いまだに恐ろしい記憶に苛まれ、「ほかのことに全く気持ちを向けることができずにいます」と綴られていた。
事件の後、ラスボーンとハリスは人生を立て直そうと努め、1867年7月11日に結婚した。
しかし、事件の衝撃はいつまでもラスボーンに付きまとっていた。リンカーンの命を救えなかったことが心に重くのしかかり、体には何の異常も認められなかったものの、呼吸の問題や動悸に悩まされた。
夫妻の間には3人の子どもが生まれたが、ラスボーンの苦悩はますます表面化し、妻と子どもたちに危険が迫っているという強迫観念に取り付かれた。
1883年には、「不機嫌になったり、ふさぎ込んだりしたかと思えば腹を立て、妻に激しく嫉妬し」、もうすぐ妻に捨てられると信じ込んでいたと、ニューヨーク州の新聞エルマイラ・デイリー・アドバタイザーは後に報じている。
この年の末、夫婦は悲しい結末を迎える。
1883年12月23日、一家がドイツに滞在していたとき、ラスボーンの精神は最悪の状態に陥っていた。ニューヨーク州の新聞バッファロー・イブニング・ニュースによると、ラスボーンは子どもたちが誘拐されるのではと思い込み、銃弾を詰めた銃を持って子どもたちの部屋に入ろうとした。
危険を察知したハリスは子ども部屋に鍵をかけ、夫と一緒に自分たちの寝室に入った。そこでラスボーンは妻を銃で撃ち、さらにナイフで刺した。そして、自分自身にも刃を向けた。妻はベッドで息を引き取った。
ラスボーンは命を取り留めたが、錯乱状態にあった。ニューヨーク州エルマイラの新聞サンデー・モーニング・タイディングスは、事件の数日後に次のように報じている。「(ラスボーンは)子どもたちが誘拐され、自分はその誘拐犯と対峙して負傷したと思い込んでいる」。自分が妻を殺害したという記憶はなかった。
ラスボーンは、ドイツで裁判にかけられ有罪となり、ハノーファーのヒルデスハイム精神病院に収容された。1911年8月14日、ヘンリー・ラスボーンはこの施設でその生涯を閉じた。フォード劇場での悲劇の夜から46年後のことだった。