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20歳で結婚→離婚後、6歳の息子と香港へ →38歳でアンテプリマ設立  荻野いづみ(69)が語った“決断”

  • 2024年4月17日
  • CREA WEB

 アンテプリマのワイヤーバッグと言えば、1998年の販売から2000年代前半にかけて、一世を風靡した最先端トレンドのバッグ。そのワイヤーバッグがブランド設立30年を経て、再度熱いトレンドを形成しています。スマートでファッショナブル、そして今もなおモダンの先端を行くワイヤーバッグが、20〜30代の若年層にリバイバルヒット、そしてその親世代である50代の顧客も増やしているそうです。

 今回はそのアンテプリマのクリエイティブ・ディレクターである荻野いづみさんにインタビュー。一筋縄ではいかなかった彼女の人生と、女性実業家として先見の明を持ち、アンテプリマを長年にわたり一流ブランドたらしめてきた人生哲学を聞きました。(全3回の2回目。)


子育ても社交もサポートも、すべてこなした米国時代

――アンテプリマを立ち上げる前の荻野さんについてうかがってまいります。現在のご主人と知り合う前は、外国籍の方と20歳で結婚し大学を中退、一時アメリカで生活されていたそうですね。

 以前の主人は自営業でしたので、私も主人を手伝っていました。アメリカでしか作れない医療機器を扱っていたので、渡米してしばらく生活していたんです。

 日本でいう“専業主婦”とはかなり感覚が異なると思います。妻として、自宅に人を招いて交流することがどれだけ夫の仕事にとって重要か、現地の社長からも手ほどきがありましたから。出世するのもしないのも奥さんがどれだけ貢献できるか、どれだけPR上手かがが大切。そういうことを自然に身に付けていきました。

 当時は若かったですけれど、「これは大変! お料理学校にも行かなくちゃ。お花もやらなくちゃ」と必死に勉強しましたよ(笑)。


24歳のときに出産した長男(荻野いづみさん提供)

――その後帰国し、24歳でご長男を出産されます。パートナーの事業のサポートもしつつ、子育てをするのはご苦労があったのでは?

 はい。彼はとても国際的な人だったので、子どもも早くからインターナショナルスクールに入れました。忙しかったけれど、楽しかったです(笑)。

 とにかく目の前のことを一生懸命やってきただけ。今もその信条は自分の中に生きています。インターナショナルスクールでも、PTA副会長になってみたり、スクールでファッションショーをやってみたりと、あらゆることに挑戦しました。

 当時学んだ語学も活きています。今、英文の書類が打てるのはタイプの学校に通ったからです。お花の学校やメイクアップアーティストのスタイリングの学校にも行きました。あとはジュエリーが好きだったので、宝石を研磨してジュエリーをデザインするスクールにも。これがアンテプリマで靴のフォームを作製するときの職人の方とのやり取りにも役立っているんです。


荻野いづみさん。

――目が回るような忙しさですね……。

 お料理学校には3つくらい通っていました(笑)。今思うと、そこには“モノを作る基本”みたいなものがあったんです。要は「何を作るかというイメージ」が大切なんです。

 先生に「料理を作って食べるだけでなく、“接待”すべてが重要なのよ」と教えていただいたことも忘れられません。どんな花を飾って、どういう会話をして。冷蔵庫に何が残っていて、旬の食材は何で、今の時代はヘルシームードなのか、それともこってりムードなのかとか……。

 ファッションも同じですよね。時代性を考え、コンセプトを立案し、マテリアルを選んで、それで何を作ろうかを考えるわけですから。だから今でもシェフの方など、お料理をされている方と仲良くなります。今振り返ると、一生懸命目の前のことをやっていたら、すべて繋がっていったという感覚があります。

――最初のご結婚は荻野さんにとってどんな意味があったと思われますか?

 私の実家は新宿にありましたが、父方が銀座で「帯吉」という帯屋を営んでいました。とても日本的な家でしたが、対照的に結婚相手はクオーター。義父との朝食にはホットケーキが出てきて、義父はガウンを着て葉巻を嗜んでいるんです。真反対の世界に足を踏み入れてしまった! と思いました。

 現在は、若い方に海外への憧れがあまりないと聞きます。けれど、私はとにかく海外へ行きたくてしょうがなかった。義父を羽田へ見送りに行きながら「あんなふうに世界を飛び回りたい!」と思っていたんです。

「いづみちゃん、20年後に旦那さんに別れてくれって言われたらどうするの?」

――29歳で離婚されて、6歳の息子さんと香港へ。香港では某イタリアブランドの極東代理店の責任者となります。離婚や生活への不安はありませんでしたか?

 私はあまり臆せずに飛び込んでしまうので、逆に周囲の皆が「大丈夫?」と心配してしまうほどなんです(笑)。

 将来が不安とか失敗が怖いとか、ネガティブなことはあまり考えていませんでした。本当にバカなんじゃない、と思うくらい(笑)。離婚を決めたときも、99.9%の人にはやめなさいと言われたんです。経済的にも安定しているし、暴力を振るわれるわけでもないのに、どうして離婚するの?って。

 でもひとりだけ、広告代理店の方に、「いづみちゃん、20年後に旦那さんに別れてくれって言われたらどうするの?」と言われて、ハッとしたんです。「今はいいかもしれないけれど、このままただお金だけがある生活はやめたほうがいいかもしれないね」って。子どものために別れないというのも良くないと言われて、自分自身のことを考えて決断しました。子どもには申し訳ない気持ちはありましたが。


「子供たちは早くからインターナショナルスクールに入れました」(荻野いづみさん提供)

――とても男気があるんですね、荻野さんは(笑)!

 そうすると周囲が心配してくれて、あれこれと世話を焼いてくれるんです。アメリカで培った社交術もありましたし、いいお友達がたくさんいて。

 そこから某イタリアブランドの極東代理店の経営にお声をかけていただいて。当時、そのブランドは本拠地のイタリア・ミラノにお店があるだけで、アジア進出を考えていたのですね。そこで、パーティに来ていた今の主人に「こういうブランドを立ち上げたいのですが、出資にご興味ありませんでしょうか?」と声をかけて、一緒にやることになりました。

――香港での生活はいかがでしたか?

 まあ、本当にみんなが良くしてくださいました(笑)。香港ではフェラガモやトラサルディ、ルイ・ヴィトンの社長といった超一流の方々を紹介していただきましたし、その方たちがまた、「ブランドビジネスとは何か」ということを惜しみなく教えてくださいました。

 タイミングとしても、ちょうど日本から皆さんが香港旅行に行き始める少し前だったので、それも良かったと思います。お店に立っていると、私が雇われ店長だと思ったのか、いろんな高級ホテルや高級ブランドから引き抜きがくるほどだったんです。「すみません、これは自分の会社なので」とお断りしたのもいい思い出ですね。本当に、お店には連日長蛇の列ができていましたから。

――そのイタリアブランドの現地法人ができるということで荻野さんの手を離れることになり、そこから、38歳でアンテプリマの創業へとシフトしていくわけですね。

 はい。最初はそのブランドがデザイナーをつけてくれたりと色々サポートしてくれることになりましたが、それも2年目くらいで打ち切りになってしまったんです。そこでまた、「どうしようかなぁ」って(笑)。極東におけるブランドの権利も返却したことで、ある程度の資金もいただけたので、もう仕事は辞めてもいいのかしら……なんて思っていたのですが、挑戦してみることにしました。

どんなに恥をかいても、命まで取られるわけではない

――アンテプリマの制作をすべて海外ベースで行うというのは、その時点で決められたのでしょうか?

 その某イタリアブランドがアンテプリマをサポートしてくれていたときには、すでにイタリアで生産していたので、そのまま継続することにしました。

――PVC(ポリ塩化ビニル)の素材を編む、という工程に行きついたのにはどんなきっかけがあったのですか?

「ニットの可能性を広げたい」という話になって、いろんな素材を編んでみたことがスタートです。

 革も編みましたがプリミティブすぎるし……と試行錯誤を重ねたときに、PVCを編んでみたら「これ面白いね!」と、デザイナーと二人で盛り上がったんです。ところが、当時のブランドの上司に見せたら、「こんなもの売れるか!」と却下されてしまったんです(笑)。手編みだし、お金もかかるし、使っているうちに伸びるし……って言われて大ブーイング。

 けれど、私はとても魅力的に感じたので、アイデアとしてあたためていたんですね。そこで、少し値段を安くして伊勢丹で販売したら、たった1週間で完売したんですよ。ほら、見たことか!って思いました。伊勢丹は感度の高い方が多かったですからね。


荻野いづみさん。

――アンテプリマを創業されてから、2023年で30年を迎えました。30年の間で、挫折はありましたか?

 30年間での挫折ですか? よく分からないなぁ(笑)。結構、能天気というか、何をやっても「命まで持っていかれることはないだろう」という感じで、あまり挫折を覚えたことはないかもしれません。

 楽観主義でもないですけれど。何というか、「まあ、何とかなるでしょう!」という感覚です。

――では、後悔はありますか?

「あ、やっちゃった!」っていうのはいっぱいありますけど、じゃあ、次はどうしようかなとすぐに気持ちを切り替えていきます。すぐに、「じゃあ、あれはこうすれば大丈夫かな」みたいに次に発想が向いていくんです。

 あるとき、ファッションショーの前日に、夜中までずっと準備して、自宅に戻ったら、うちの主人が鍵をかけたまま寝てしまい、入れなかったことがあるんです。仕方がないからスタッフが泊まっているホテルに行き、2時間くらい仮眠して、そのままの格好でショーに行きました。そうしたらプレスに「デザイナーの荻野いづみは、わりとカジュアルな格好」なんて書かれたりもして(笑)。そんな恥はたくさんかいていますけれど、皆さん、命までは取っていきませんから。

荻野いづみ
アンテプリマ クリエイティブ・ディレクター

東京で生まれ育ち、1980年代に香港へ移住。イタリアブランドのアジア展開を手掛け、リテイラーとして活躍する。「タイムレスなラグジュアリーさと現代のスタイルを持ち合わせたモダンな女性」――ユニークな洞察力を持ち合わせた荻野いづみは、地球の反対側のミラノで、1993年自身のブランド“ANTEPRIMA”を立ち上げる。アンテプリマのクリエイティブ・ディレクターとして世界を飛び回りながら、ファイン・アート、文学、音楽、ダンスや演劇などの様々なアートに対しての情熱を持ち続け、宝飾デザイン、生け花、メイクアップなどの幅広い知識などからインスピレーションを得ながら、クリエイションに生かしている。ファッションの才能のある次世代の若者を、スポンサーとしてサポートする活動にも意欲的に取り組んでいる。

文=前田美保
写真=佐藤 亘

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