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ピラミッド群沿いの「幻の水路」をついに発見、ナイル川支流の跡

  • 2024年5月20日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

ピラミッド群沿いの「幻の水路」をついに発見、ナイル川支流の跡

 現在、ギザのピラミッドは、砂と岩ばかりの砂漠の景色の中にたたずんでいる。そこは、青々としたナイル川の岸辺から何キロも離れている。

 だからこそ、姿を消した王国の壮大な遺跡という印象が強いのだろう。しかし、昔からずっとそうだったわけではないようだ。5月16日付けで学術誌「Communications Earth & Environment」に掲載された新たな研究によると、かつてピラミッドはナイル川の大きな支流沿いにあり、たくさんの船がそこを往来していたという。

「この支流は、古代エジプトの幹線道路だったと考えています」と、米ノースカロライナ大学ウィルミントン校の地形学教授エマン・ゴネイム氏は話す。

幻の支流、アフラマト

 現在、エジプトの西方砂漠と呼ばれる台地のふもとには、紀元前27世紀から前18世紀という1000年ほどの間に建てられた31基のピラミッドが並んでいる。これらのピラミッドは、今は干上がったナイル川の支流沿いに建てられたのではないかという説は昔からあった。これまでの研究でも、いくつかの場所で水路の痕跡が見つかっていた。

 しかし、ゴネイム氏らは、その水路の一部を地図に描くことに初めて成功した。そして、その支流は予想よりもはるかに大きいものだったと明らかになった。

 今回の論文には、衛星写真から今はなきナイル川の支流をゴネイム氏の専門的な目を通して発見し、その経路を地形学的に検証したことが記されている。

 その結果、カイロから50キロほど南にあるリシュトという町からカイロ近郊のギザのピラミッドに至るまで、消えた支流が約64キロにわたって地図に描き出された。

 そのうち今も残っている水域は、アブシールのピラミッド近くにあるバハル・エル・リベイニ運河と呼ばれる小さな場所だけだ。しかし、この支流はかつて、場所によっては川幅が約700メートル、深さ25メートルにも及んだという。論文では、アラビア語でピラミッドを指す言葉にちなみ、この支流を「アフラマト支流」と呼んでいる。

衛星画像を読み解く

 エジプトで育ったゴネイム氏がはじめてアフラマト支流の痕跡に気づいたのは約2年前、可視光や目には見えない波長の光で撮影したマルチスペクトル衛星画像を見たときのことだった。さらに、衛星レーダーのデータから抽出したデジタル標高モデルを詳しく調べ、この一帯の地形の標高や異常な点を割り出した。

次ページ:「幅や深さや長さ、そしてピラミッドとの近さも新しい発見です」

 地形学者は、地形を変化させるプロセスの専門家だ。その経験を積んだゴネイム氏は、今や砂漠に覆われたり何世紀にもわたって農地化されたりしている、ずっと昔に失われた水路の痕跡を発見した。

 このような衛星データが手に入るようになったのは、ごく最近のことだ。そのため、今回のように、かなりの長さにわたって消えた川が見つかるのも前例がないようだ。

「実際の水路だけでなく、幅や深さや長さ、そしてピラミッドとの近さも新しい発見です」とゴネイム氏は述べる。

荒れたナイルの時代

 ナイル河谷での初期の文明の発展に関しては、エジプト研究者たちがおおまかな年代をまとめている。

 この地域が砂漠からサバンナのような環境に変わったのは約1万2000年前。最後の氷河期の最終段階が過ぎ、世界中で海面が上昇した結果だ。

 1万2000年前から5000年前ごろのナイル河谷は、水位の高い沼のような環境が多く、人が住みにくい場所だった。今回の研究には関与していないが、英ケンブリッジ大学の地質考古学者であるジュディス・バンベリー氏によると、これは「荒れたナイル」と呼ばれる時代だという。

 人がナイル河谷に住み始めたのは、その後の時代だ。目的は魚だったかもしれないと氏は言う。そして紀元前2700年ごろには、いくつかのナイル川の支流は十分「穏やか」になっており、エジプト古王国の基礎を担うようになっていた。ただしこのころも、大規模な洪水は頻繁に起こっていた。

ピラミッド建設の水上輸送

 ゴネイム氏は、紀元前2200年ごろまで続いた古王国期の間、アフラマト支流は重要な水路だったに違いないと考えている。つまり、この川の流路がわかれば、重要な文化遺跡の調査や保護に役立てることができる。

 重要な点は、当時建設された多くのピラミッドの資材を、この支流を使って船で運べただろうということだ。「古代エジプト人には、非常に重い建築資材や作業員をピラミッド建設現場まで運ぶ水路が必要でした。そこで、この支流を幹線道路のように使ったのです」とゴネイム氏は話す。

 アフラマト支流とピラミッドが数百メートルしか離れていない場所もあった。多くのピラミッドは、港のような役割を果たした可能性がある河岸の神殿と歩道でつながっていた。

次ページ:「幅は現在のナイル川と同じくらいでした」

 いくつかの地点で土壌のサンプルを集め、数カ月に及ぶ地球物理学的な調査を行った結果、アフラマト支流ははるかに想像を超える大きさだったことがわかり、研究者たちを驚かせた。

 川幅は一般的な場所で400メートル以上あり、ギザに近い北端部ではさらに広がって入り江ができていたようだ。

「これは大きな支流で、幅は現在のナイル川と同じくらいでした。ピラミッドに近いことから、古代エジプトで非常に重要な役割を持つ水路だったと考えられます」

大きな水路が消滅へ

 にもかかわらず、現在、アフラマト支流はほぼ完全に姿を消している。研究によると、川は紀元前2000年ごろに東へ移動し、徐々に浅くなり始めたという。これは、地質活動や西方砂漠から風で運ばれる砂による影響と考えられる。

 紀元前2040年から1780年ごろのエジプト中王国期に建てられたピラミッドは、古王国期のものよりも東にあることがわかっている。これはおそらく、東に移動していたアフラマト支流に近づけるためだ。

 ただしバンベリー氏は、ピラミッドの建設自体がアフラマト支流の消滅を早めた可能性もあると考えている。さらに、この川が埋まるプロセスは、もう少し早い紀元前2500年ごろに始まっていた可能性もあるという。

 そのころ、サッカラとダハシュールという場所の間に造られたのが、「シェプセスカフ王のマスタバ墳」(完全なピラミッドではなく、屋根が平らな墓)だ。建設が急がれた理由は、アフラマト支流が縮小していたからかもしれない。「水路での輸送が難しくなってきたので、最低限の作業で済ませたのかもしれません」とバンベリー氏は言う。

 ノルウェー、ベルゲン大学博物館の花粉学者ハデル・シェイシャ氏も、今回の研究には参加していないが、ギザの近くに水路があったことを示す古代の環境の証拠を調査したことがある。そこは、当時アフラマト支流があった場所かもしれない。

 シェイシャ氏は、アフラマト支流の大きさや深さは、一部の既存の説を覆す可能性があると述べている。たとえば、ピラミッド建設の輸送に使われた水路は狭く浅かったため、いつも船で混雑していたという説もそうだ。しかしゴネイム氏は、アフラマト支流には、船が上りと下りの双方向に往来できるだけの広さがあったと考えている。

 研究チームの次の目標は、埋もれている植物片や貝殻の放射性炭素年代測定を行い、アフラマト支流が使われていた年代を確定させることだ。また、ピラミッドに近い長さ60キロほどの範囲だけでなく、その南北の川の地図を作ることも計画している。

「今回明らかになったのは、支流のうちエジプト北部にあった部分だけです。中部と南部は、まだ調査できていません」とゴネイム氏は話す。「さらに調査を広げて、この支流がどこで始まっていたのかを突きとめたいと思っています。おそらく、スーダンとの国境近くではないかと考えています」

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