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(Boulder)vol.14 成功した町“ボールダー”のDNAとは

  • 2010年11月1日

美しいボールダーの町
美しいボールダーの町 by Boulder Convention & Visitors Bureau
 LOHASのコンセプトを生んだボールダーがユニークな町として知られるようになったのには訳がある。持続可能なコミュニティを実現させたボールダーの町は今も自らの強さを維持し続けている。ボールダーを一つの命ある有機体として眺めると、もしかしたら私たちはその身体の「各部位」を特定し、そして「DNAモデルの成功例」を発見することができるかもしれない。
 先日、今やボールダーの伝説となったリチャード・フォイ氏とこの仮説について会談する機会を得た。リチャードはパール・ストリート・モール(目抜き通り)やボールダー・ファーマーズ・マーケットなど、ボールダー市の最も成功を収めたプロジェクトのいくつかに携わってきた人物だ。彼の経営する設計事務所Communication Artsもまたニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンや東京ミッドタウンなど、世界的にアイコニックな物件のプロジェクトに参加してきた。


西部の経験が生んだ「チャンスの地」

リチャード・フォイ氏
リチャード・フォイ氏…パールストリートにある氏のオフィス前にて
 まず初めにボールダーを含めアメリカ西部の歴史について見てみる必要があるだろうとリチャードは言う。「西部はそこに暮らす動物たちや種族によって定義されるものではない。土地によって定義される」人々が初めてアメリカ東海岸の入植地から西部へ旅をした時、見渡す限りの荒野に彼らは限りないチャンスを見いだした。そこではどんな名声も役には立たず、ただ自分自身の手で何ができるかが重要だった。この西部の経験はついにアメリカ合衆国を「チャンスの地」と呼ばしめることになる。
 西部開拓時代以前からボールダーは人々を魅了し続けて来た。最初にこの土地に魅せられたのはインディアンのユト族だ。彼らの移住性のライフスタイルは非常にフットプリント(環境に与える負荷)の軽いもので、ダムを建設して川をせき止めたり、鉱物を採掘して山肌を荒らしたりして公害を生むこともなかった。「ユトたちはボールダーの最初の持続可能なコミュニティだった。彼らの後にやってきた白人たちもまたボールダーの美しさに感動し、そして限りないチャンスをこの土地に見いだした」とリチャードは言う。


ボールダーの「ボディ、マインド、スピリット」

マウント・サニタス
マウント・サニタス by Daily Camera
現在のシャタクア公園
現在のシャタクア公園
 ボールダーを一つの有機体として捉えるならば「さしずめマウント・サニタス(Mt. Sanitas)がボールダーの“ボディ”部分だろう」とリチャードは仮説に取りかかる。1868年、 ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ(John Harvey Kellogg)博士がボールダーの町を一望できるフロントレンジにマウント・サニタスという名のサニタリウム(注1)を建設し、健康的なライフスタイルを人々に提唱した。博士はアメリカの菜食主義団体セブンスデー・アドベンチス教会信者で医学博士、シリアル食品メーカーケロッグ社の共同創始者でもある。 このサニタリウムに訪れる人々には菜食の食事療法が施され、毎日の運動が奨励された。現在サニタリウムは稼働していないが、そこで提唱された健康的なライスタイルは今も人々に受け継がれている。ボールダーは終始「世界で最も健康的な町ランキング」上位10位内にランクインし続けている。

 次にリチャードは1876年にその門を開いたコロラド大学(University of Colorado)をボールダーの“マインド”だと指摘する。ボールダーはコロラド大学の発展とともに学術都市として知られるようになった。コロラド大学はコロラドが州として認定される5ヶ月前に創立され、今では一流の研究機関として、そして州内の最も重要な大学になった。コロラド大学は町の若々しさと経済活力を維持する役割を果たしてきた。 毎年新入生の流入によって有り難いことにボールダーの平均年齢は29歳を保っており、毎年政府から莫大な学術交付金を勝ち取り得ている。


コロラド大学の校舎とボールダーの山々
コロラド大学の校舎とボールダーの山々 by University of Colorado
 「ボールダーの“スピリット”に当たるものは1898年に立ち上げられたコロラド・シャタクア協会(Colorado Chautauqua Association)に関係するものが多い」とリチャードは続ける。この団体は教育的、文化的なリトリート機関として創設され、国中から様々な演説家やパフォーマー、教育者を呼び寄せることに一役買った。「シャタクア協会はボールダーの町に共同体意識と芸術、そして哲学的な議論をもたらした」とリチャードは振り返る。現代、町を守護するオープンスペースとなったシャタクア公園では毎晩のように音楽や芸術、スポーツのイベントが催されており当時の面影を偲ぶことができる。
 これら3つの要素は前世紀の間中ボールダーの屋台骨として醸成され続け町の未来を決定づけた。私は比較的近年の建造物であり、またリチャードが手がけたプロジェクトでもあるパール・ストリートやファーマーズ・マーケットについても彼の意見を聞きたくなった。どちらもボールダーの町になくてはならない存在である。


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