自然が自然たる「力」とは何なのだろうと考えることがあります。そしてそこから導かれる環境の中の流れというものを考えてみることがあります。
自然は美しく恐ろしいもの。その中で存在を許されている私たちは、遠い昔から自然に対して畏怖を感じ、尊び神として祭り上げて、その存在と大きさを認めながら己の存在を認識しようとしてきたように思います。
ロッキー山脈 コロラドプラトー
荒野という言葉で表現するのが適切と思いますが、大陸を見たことのない人には想像がつきにくい環境地帯があります。その一つにアメリカ中西部地域のそれがありますが、特に岩場の多いコロラドプラトー(コロラド高原:古代は海の底だったものが隆起して標高1,500m前後に存在し、それを侵食で切り抜くように流れるコロラド川は有名。中流に世界遺産グランドキャニオンがあります。)は北アメリカ大陸を縦断するロッキー山脈の西側に横たわっています。
岩場ばかりの環境の中で樹木が存在しているのに驚くことがあります。そんな環境下でも侵食してできたり、風にのって舞い落ちる砂などが溜まる場所が出来ます。そこにミクロの世界が命を吹き込み、砂をある程度安定させるコロニーが出来ると、小さな草の種が発芽して根を張れるチャンスができます。人間の寿命から考えると気の遠くなるような、スローで長いプロセスですが、環境に順応し与えられた条件下で前進しているのです。
草が根を張り群生すことによって更に地面が安定すると、今度は樹木が根を張るチャンスができます。これも多くの種が挑戦した中の運のいいものだけが勝ち取る生存競争です。根を張った樹木は岩の亀裂などに更に根を伸ばし、その「存在」を確立します。これらのプロセスの中で忘れてはいけないことは、微生物、昆虫、小動物などが環境の変化、進展に応じて繁殖して地域の生態系の一部として登場し継続的に存在していくということです。
自然界のバランス
ロッキー山脈の西側に位置するボールダー、そしてそれを含むデンバー首都圏(メトロデンバー)は人口が約260万人あります。岩場こそ平野部では少ないとはいえ、こちらも乾燥性気候にあり、開拓民が移り住み都市を形成するまでは埃舞い散る荒野でした。人々が水を引き樹木を植えることによって緑が増えた地域です。
春の大地がエネルギッシュに感じられ、若葉が大きく芽を出して初夏に向かおうと準備を進めていた数年前のある日に低気圧と寒気団の突然の訪問により春の豪雪が到来しました。湿った雪は雨のように降り続け、太陽の光を力一杯受けようと大きく開いたばかりの葉にしがみつくかのようについて固まりとなって木の枝にのしかかりました。その重みに耐えかねて多くの枝が折れ痛々しい姿の樹木が目につきました。これも自然の過酷さというのでしょうか。
そんな思い出がまだ鮮明な中、当時大きく枝を折られていた木を見ると驚かされてしまいます。枝が折れてなくなり、大きく開いていたはずの空間は、いつの間にか新しく伸びた枝で埋め尽くされて若葉が顔を出していいます。アンバランスにも思えた悲惨で痛々しく見えていた木は、誰に教えられることもなくしっかりとバランスを取り戻し力強く生きていました。
果たしてあの豪雪は樹木たちにとっては災難だったのでしょうか。それとも、自然の余計なお節介だったのでしょうか。人間の感情で理解しようとするとそんなアプローチになるかもしれません。
森に火事がおこり朽ちた木や枯葉、枯れ草などを焼き尽くして再生する自然のサイクルに似ているような気がします。異常発生していると思われる松食い虫も、ひょっとすると増えすぎた松の数を調整するための調整かもしれません。私たちにとっては痛々しく、または醜く見える枯れた松の木も、朽ちて土に戻ったり、山火事で焼かれて灰になったりすることによって自然界のバランスというものを調整し保つために次の役割を持っているものたちにバトンタッチしているのかもしれません。