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Vol.13 「制約の中にこそヒントがある」をモットーに
LOHASライフスタイルデザイナー 吉野あかねさん

  • 2009年6月1日
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LOHASライフスタイルデザイナー 吉野あかねさん

Profile

神奈川県横浜市生まれ。 大妻女子短期大学日本文学科卒業。
ライターやディレクション活動をしながら、本名「松井あかね」としてヨーガインストラクターを兼業。
2008年1月、社団法人日本アロマ環境協会認定アロマテラピーアドバイザーの試験合格後、スウェディッシュマッサージを行うアロマセラピストに。
東京商工会議所、環境社会検定試験合格「エコピープル」
LOHASコンシェルジェ(NPOローハスクラブ認定)

 

 「一度きりの人生、楽しまなくちゃ損!多少道が険しくても、必ず夢は叶えてみせる」吉野さんがそう思ったきっかけには、過去の苦い経験がある。

病気が教えてくれたコト

 短大を卒業後、企業のPR館でお客様に最新の技術紹介をするアテンダント業務に就いた。もともと接客業は好きだったが、それまでむしろ苦手分野であった科学関連の情報を、深い知識を持って、小さな子供から大人にまで及ぶ、幅広い年齢層に対応して伝えるという内容。それに加え、上下関係などの厳しさに耐えかね、とうとう病を発症してしまったのだ。

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2007年3月に訪れたインドで貧富の差を目の当たりにし、「足るを知る」を痛感
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滞在先のアシュラムにてふるまわれた、無農薬野菜で調理されたインド料理
 しかも、それは、「日本で手術してくれる医師はまずいないでしょう。アメリカへ行っても多分、5割の確率だと思います。」という脊髄腫瘍の一種である病気だった。

 ショッキングな宣告を医師から受けた時、「まるでワイドショーみたいだな…」と、どこか他人事のように思え、不謹慎にも思わず笑いさえ出てしまったそうだが、一緒に聞いていた両親はそうはいかなかった。ありとあらゆる所に連絡をし、死に物狂いで駆けずり回った。そして、国内で、しかも東京都内という前段の医師が言ったアメリカよりも断然近い場所に、その病気治療を専門とする名医を見つけた。

 ただちに転院。吉野さんは、最初にその名医と出会ったシーンが今でも忘れられない、という。「既に歩くことも困難で車イス姿だった私に近づき、肩にそっと手を置いて、『もう大丈夫だよ。』と。」

本当にさり気ない言葉に思えるが、窮地に立たされている人間を救う言葉とは、案外このようなものなのかもしれない。ストレスが主な原因と見られ、国内ではまだわずか100人ほどしか例がないという、大変珍しい病気である事も、その時、初めて分かった。

 あらゆる症状が少し治まったところで、やっと手術日を迎えた。腫瘍をいじるには骨を削る必要があったため、8時間に及ぶ手術となった。それでも尚、とり切れなかったため、リハビリを経て、車椅子生活に別れを告げたところで、一旦退院。英気を養ってから、再入院をし、残りの腫瘍を放射線療法でたたくこととなった。その後、自宅療養も含め、再び元の職場に社会復帰した時には、「あの告知」から実に2年を経過していた。


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早朝、登山をし、ヒマラヤ山脈の見える所で朝日が昇るのと同時に皆で瞑想をする貴重な体験も
 社会復帰を果たしたとは言え、身体にはまだ腫瘍を抱えているがために生じる足の痺れや頭痛、背部痛などで、それまでと同じようには働けない。そんな中、WEB時代の潮流に乗ってホームページを立ち上げようとするメンバーに加わらないかと声をかけられる。

 闘病中、これから先、腫瘍を背負った身でも出来る事を模索していた中の選択肢の1つが、在宅でも可能なWEB関連の仕事だっただけに、喜んで引き受けた。様々な出会いの中で、ライターの道も開け独立を決意。支えてくれる周囲の温かい後押しもあり、会社を退職した。「自分の身体には限界がある。もしかしたらまた明日、自力で歩くことができなくなるかもしれない。だったら、今、本当にやりたい事をやろう。」身をもって知った現実。であるからこその決断だった。


ふいに訪れた二度目の転機

 WEBの世界にハマり、女性サイトでの仕事も経験。その後、元の会社から契約の声もかかり、かの苦手だった科学分野のホームページのディレクションと取材インタビューを仕事の軸とした。

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最先端技術の展示会へも足を運び、情報を収集
 「でも、もうその頃は、科学への苦手意識より、取材した事を分かりやすく執筆し、WEBを介して多くの人に伝える喜びのほうが上回っていました。」それは、日々届くユーザーの「難しそうな事だと思っていたけれど、すんなり理解できました。」といった声に支えられていたからだ。そして、何よりも、インタビューに際して、科学者、研究者、小学校の理科の先生、最新技術製品の広報担当者などに会うことが楽しかった。あらかじめリサーチした中で、堅物な人なのだろうな、と思われる有名な科学者も、実はとてもユーモアにあふれ、むしろ、オフレコな事まで話してくれるフランクさに魅了された。

 しかし、そんな吉野さんに、また「ある転機」が訪れる。それは、急激に、環境問題に関連する案件や取材が増えてきたことだ。「どんなに下調べをしていっても、相手の話している事に追いついて行けない自分に気付き、落胆しました。」『付け焼刃で語れるような世界ではない。もっと引き出しを増やさなくてはユーザーに対して、自分の言葉で伝えることができない』との思いが日々強くなる中、再び体調を崩してしまった。それでも、何とか通院と投薬で半年は持ちこたえたが、契約先との方向性の相違も手伝って2006年末を持ってその職を辞した。


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