サイト内
ウェブ

Vol.15 黒澤 聡樹さん
メセナが会社を育てる

  • 2008年12月1日
黒澤 聡樹さん

イカリ環境事業グループ代表/ 黒澤 聡樹さん

Profile

戦後に父が興した船舶の害虫駆除会社・錨消毒(現・イカリ消毒)に1959 年入社。1961 年、父親の急逝により社長に就任。1980 年より、イカリ消毒、関連会社、海外10 ヵ所の拠点を含めたイカリ環境事業グループ代表兼CEO に。2004年より(株)環境文化創造研究所代表取締役社長を兼任。さくら美しい街づくり運動からレスター・ブラウン氏との地球環境運動、グリーングローブ日本支部の創設と幅広い環境保健産業のパイオニアとして活動に取り組んでいる。現在、社団法人発明学会理事、財団法人日本さくらの会常務理事、ゆうもあくらぶ常任理事、財団法人尾崎行雄記念財団評議員も務める。
受賞歴:防虫・防鼠環境新技術の開発において、黄綬褒章、科学技術庁長官賞、東京都科学技術功労者賞など

 

 地球環境問題が深刻化しているなか、持続可能な経済『プランB』を提唱する環境問題のパイオニアであるレスター・ブラウン氏。2008年6月の来日講演でレスター・ブラウン氏の第一声が、黒澤聡樹さんの紹介だった。

日本での『プランB』チームキャプテンとして

ブラウン氏と
来日のたびに必ず黒澤さんと会うレスター・ブラウン氏
 レスター・ブラウン氏の新著『プランB3.0』のなかで、「氷の融解だけ見ても、人類文明が困難に直面していることがわかる。20世紀のような社会経済システム「プランA」はもはや持続可能な選択肢ではない。プランBの出番である」と述べている。黒澤さんは、日本での「チームプランB」キャプテンとして『プランB』を推進している。
 黒澤さんとレスター・ブラウン氏との出会いは1996年、環境フォーラムを開催し、“今、地球が危ない”というテーマで講演して以来だそうです。「地球が危ない!エコ・エコノミーに転換しなければという言葉が衝撃的でした。以来、毎年のように講演会を開催し、出版物の後援を含めた地球環境運動を推進してきました。同時に環境文化創造研究所を設立し、レスター・ブラウン氏を名誉顧問として迎えました」という。

 当時は環境問題の社会認識は低く、理解されにくいものでした。自らのビジネスでも早くから環境問題に着目し、また40年にわたって桜の植樹を社会貢献の一環として取り組んでいる黒澤さん。そのすべての原点は、辛い事故にあったようだ。


原点は辛い事故に・・・

 シロアリ、害虫駆除などからスタートし、「健康と環境」をテーマに環境文化を創造するグループとして成長しているイカリ環境事業グループ。一企業の枠を超えた取り組みは社会から注目を浴びています。グループ代表の黒澤聡樹さんは、これまでに世界50カ国以上を訪れて「人間は幸せでなければならない。自然に親しまなければならない」ということを実感したそうです。

植樹
北里大学保健衛生専門学院でのさくら贈呈植樹。左は学院長の鈴木達夫氏
 「20歳頃までは父に言われるままに仕事を手伝っていましたが、ある時、都内の有名ホテルでネズミが出て困っているという連絡が入り、ネズミ退治に奔走しました。この時、先方がとても喜んでくれた姿がうれしくて、やりがいを感じました。以来、消毒という仕事に熱心に取り組むようになりました」という黒澤さん。しかし、イカリ消毒の創業(1959年)からわずか3年目で創業者の父親が突然の交通事故で急逝してしまい、まだ23歳で黒澤さんは社長に就任となったのです。
 その頃日本は、東京オリンピックを控え高度経済成長が始まり、東京では高速道路や地下鉄の建設が相次いでいた時期でもありました。黒澤さんは多数のビルとネズミ駆除の消毒契約を結び「ネズミ捕り四天王」などとマスコミで取り上げられるようになっていました。
 しかし、そんな矢先に大変な事故が起きてしまいました。東京・池袋の百貨店で消毒作業中にアルバイト社員が吸ったタバコの火が消毒液に引火して火事になってしまったのです。

 「1963年8月22日、忘れもしない、うだるような蒸し暑い日でした。『イカリの作業中のデパートが燃えている。すぐに来てくれ…』電話では要領を得ないまま、ともかく池袋を目指しました。現場に近づくにつれて、幹線道路や国電(JR)が交通規制で、思うように近づけません。現場の近くまで駆けつけたときは、真っ黒な煙がもくもくと空全体を覆い、放水で流れ落ちた真っ黒な水、すさまじい暑さによる熱気が蒸気となり、空気全体が灰色に染まっていました。道路や周辺は泥水で溢れ、黒煙でドロドロになり、消防士や警察、マスコミ関係者、やじ馬でごったがえして、大混乱でした。いま振り返ると、まさに地獄絵図を目の当たりにした瞬間でした」
 そして、社員1名を含めた7名の尊い命が奪われてしまいました。黒澤さんは遺族を始め関係者、得意先など300軒の顧客をすべて回り、平身低頭、お詫び行脚をしたという。「当時、一緒に働いていた弟の真次と2人で死んでお詫びをしようかと悩み、思いつめたほどでした。しかしこの時、百貨店の店長を務めていたグループのオーナーの『起きてしまったことは仕方がない。君たちはまだ若いのだ。今回の件を教訓とし、これからがんばりなさい』という励ましの言葉に勇気づけられ、以来、死んだつもりで社会に貢献できる企業になろうとここまできたように思います」と黒澤さんは振り返る。



キーワードからさがす

gooIDで新規登録・ログイン

ログインして問題を解くと自然保護ポイントが
たまって環境に貢献できます。