サイト内
ウェブ

第18回 テキスタイルデザイナー・アーティスト / 菊池 学さん
自然の持つ力をテキスタイルに表現

  • 2009年2月1日
菊池学さん

テキスタイルデザイナー・アーティスト / 菊池 学さん

Profile
文化服装学院テキスタイルデザイン科卒業後、八王子の織元「みやしん株式会社」に入社。宮本英治氏に師事し、織物のノウハウや繊維についてのあらゆる知識を享受。1988年より現在にいたるまでISSEY MIYAKE MENのテキスタイルデザイナーとして活躍。常に素材開発のため、国内外を問わず各地に出向き、産地の開拓や素材の発掘を行っている。アーティストとしては、錆をテーマにテキスタイルを中心とした様々な作品を創作、自然が持つ力強さやその素晴らしさを思考表現している。

 ファッションのデザインもその素材が重要と、早くからテキスタイルデザインに着目。織物のノウハウや繊維について織元で基礎から学んだ菊池学さん。現在ではISSEY MIYAKE MENのテキスタイルデザイナーとして活躍する他、アーティストとして作品も制作。菊池学さんの作品は、鉄の酸化皮膜である錆を生成させることによってつくられている。それは、つくり手である人間の主体性を全面に押し出したものではなく、例えば、炎との対話によってつくり出される陶芸のごとく、時には偶然の意外性も含めて、土、空気といった自然との語らい、調和によって生み出されるものであるという。

ファッションデザインの基本は素材と染色 トップランナーをめざす

なぜテキスタイルデザイナーになろうと思われたのでしょうか?

 ファッションの世界に進んだのは、かなり軽い気持ちからでした。高校生の頃、遊び回っているうちに、洋服に興味を持ち、文化服装学院に進みました。入学したのは1978年。当時はかなり個性的な人たちが集まってくる学校でした。ずば抜けて、変な人たちが多かったですね(笑)。
ISSEY MIYAKEに転職して間もない頃の菊池さん
ISSEY MIYAKEに転職して間もない頃の菊池さん
 いざ、入学してみると、200人、300人という学生のほとんどがデザイナーを目指していました。その中でトップになるのは難しい。でも、どうせやるならこの世界の頂点を目指したい。そこで着目したのが、素材だったんです。当時、テキスタイルデザインというのは、あまり人気がなくて、その専門に進むのは20人ぐらいでした。この人数ならトップになれると(笑)。
 ただ、学び始めてみると、テキスタイルの重要さに気づきました。どんなに素晴らしいデザインがあっても、糸や布地の素材がなければ実現しない。そして、繊維は日本の基幹産業でもあり、その素材を生産しているのは東レや帝人といった大企業が多かった。学校の方でも、ずいぶんと研修に行かせてくれたので、企業の現場でものづくりの醍醐味を学ぶことができましたね。


モノづくりの現場で磨きをかける

テキスタイル業界で「みやしん」を知らぬ人はいないといわれるほどに、革新的な織物で業界に旋風を起こし続けていますが…

 「八王子にISSEY MIYAKEに生地の生産している織元がある」というのを聞いたのも学生時代。「みやしん」という会社でした。創業者の宮本新八朗氏は、終戦後、戦地から復員して故郷の八王子に戻りました。八王子は甲州街道の宿場町であるともに、着尺(着物の生地)の産地でした。新八郎氏はまず染色技術を学び、それから織機を何台か購入して、着尺を織る会社を興されました。
ギャラリーefでの展示
ギャラリーefでの展示
 しかし、1970年代も後半になると、時代の流れで着物の需要が激減しており、このままでは衰退の一途を辿ることは目に見えていました。2代目の宮本英治さんはアパレルへの進出を決意し、ISSEY MIYAKEの門を叩いたのです。私がみやしんに工場見学へ行ったのはISSEY MIYAKEとの取引が始まって1年半が過ぎた頃でした。就職活動の時期になると、ゼミの担当教授がみやしんへ行かないかと聞いてきました。やはりISSEY MIYAKEの名前にも憧れましたから、教授にお願いして、入社が決まりました。みやしんに専門学校以上の学歴を持った人が入るのは私が初めてだったようです。

 入社してからの3年間は、工場の下働きをしていました。山のような量の糸をボビンに巻き付ける。織機に油を注す。糸を織り終わると、次のボビンをセットして、糸を結ぶ。肉体労働ですよ。でも、上に行きたいという気持ちが強かったから、その作業を通じて生地づくりの基礎を学びました。
 1年半が過ぎた頃、宮本英治さんがパリへ出張に行くことになり、英治さんは私に、「生地の試作品、これだけ作っておいて」と言って出発しました。初めて、生地を作る機会を与えられたのです。その仕事が認められたのか、それからは、英治さんがISSEY MIYAKEに営業へ行くときは、連れていってもらえるようになりました。3年目ぐらいからは、自分でブランドを担当するようになりました。当時はデザイナーズ・ブランド全盛の時代です。それぞれのブランドが求める生地を試作し、売り込みました。
 私は、仕事のすべてをみやしんで学びました。それは、スケッチブックに鉛筆でサラッと絵を書くデザインの世界とは違います。身体を動かして、手を汚しながら、モノを生み出していくリアルな世界です。宮本英治さんに出会っていなかったら、今の自分はないと思いますね。


キーワードからさがす

gooIDで新規登録・ログイン

ログインして問題を解くと自然保護ポイントが
たまって環境に貢献できます。