あるお坊さんから、こんな話を聞きました。
そのお寺では座禅の会を定期的に行っていて、電話での問合せも多くあるのですが、「座禅を体験したい」と言う人は断る場合があるとのこと。なぜなら、「“体験”じゃ意味がないから」というのです。
キャンプも体験活動のひとつで、自然体験活動というカテゴリーに分類されることが多いわけで、「“体験”は意味がない」と言われると、困ってしまいます。
ただ、よくよく考えてみると、「体験」にはふたつの意味があることに気づきます。
たとえば、英会話教室の「体験レッスン」とか、パソコンソフトの「体験版」のような、「お試し」としての体験。これはあくまでもきっかけとしての経験なので、内容や時間の制約があり、そこで得られる情報は限られていて、情報の中身は体験を提供する人の意図でいっぱいです。一方、座禅というのは何かを習うわけではなく、内観するための時間だから、そこにお寺の意図はありません(たぶん‥)。だから、お試しの経験をいくら積み重ねても意味がないということになるのでしょう。
もうひとつの「体験」の意味は、もっと個別的で主観的なものです。哲学用語としての体験は、「個々の主観のうちに直接的または直観的に見いだされる生き生きとした意識過程や内容。(デジタル大辞泉より引用)」と定義されています。確かに、お試しとしての体験とはずいぶん違っていて、この意味であれば「キャンプは体験活動」と胸を張って言えそうです。
と、一安心したものの、私たちは「体験」の意味を正しく使い分けているだろうかと、また不安になりました。「子どもには体験が必要だ」ということで、さまざまな体験活動が提供されていますが、単なるお試しの活動も多く存在します。その人の人生に影響を与えるような体験はとても個別性が高く、提供者の意図たっぷりの、ゴールが設定されたお試しの中には、たぶん、存在しません。ふたつの「体験」の意味の違いをじゅうぶんに認識しておかなければならないなぁと、強くおもうのです。