モデルから戦場写真家へ転身、リー・ミラーの型破りな人生

  • 2025年5月9日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

モデルから戦場写真家へ転身、リー・ミラーの型破りな人生

 バスタブに入り、数週間に及んだ戦場生活の汗や泥を洗い流すポーズをとるリー・ミラー。そこは、普通のバスルームではない。ナチスの独裁者アドルフ・ヒトラーの個人宅のバスルームだ。同じ日、ヒトラーはベルリンで自殺した。

 連合軍がドイツ国内で戦闘を繰り広げる中、戦場写真家だったミラーは、ミュンヘンにあるヒトラーの自宅に侵入した。金髪の米国人女性がヒトラー宅のバスルームで入浴している、という普通では考えられない写真は、第二次世界大戦末期の様子を映した写真のなかでも、非常に強い印象を残す一枚となった。

 元モデルだったミラーは、自分を最高に良く見せるアングルを知っていた。だが、この写真からは、ミューズ(「女神」の意、創作者のインスピレーションをかき立てる女性)であり、努力の芸術家であり、自らの力で道を開拓した写真家であるミラーが持つ複雑な側面は見てとれない。

 彼女の人生は、5月9日公開に公開されるケイト・ウィンスレット主演の伝記映画『リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界』の中で語られている。

 この記事では、エリザベス(通称「リー」)・ミラーが、目の前に立ちはだかる壁をどう突破していったのか、どのような道をたどってファッション誌「ヴォーグ」のモデルからヨーロッパの戦場へ行き着いたのかを探る。

型にはまらないモデル

 ミラーは1907年、米国ニューヨーク州ポキプシーの裕福な家庭に生まれた。学校生活はうまくいかず、わずか7歳の時に受けたレイプ被害で淋病に感染するなど(当時はこの病気に対する偏見があり、完治も難しいとされた)、心に深い傷を負った少女時代だった。

 家族関係にも問題があった。父親のセオドアはアマチュア写真家で、ミラーが幼い頃からずっと、そしてティーンエージャーになってからも彼女をヌードモデルにしていた。

 18歳になる頃には、ミラーは人が思わず見とれるほど美しく成長し、常識にとらわれたくないという野心と熱意を持つようになった。芸術や演技、モデルの仕事を求め、ミラーはニューヨーク市に移り住んだ。

 幸運にも――あるいは周到な計画が功を奏したのか――ミラーはすぐに大きなチャンスに恵まれる。車にひかれそうになったところを、ある人物に助けられたのだ。その人こそ、ヴォーグ誌の伝説の発行人コンデ・ナストで、ファッション業界に大きな影響力を持つ人物だった。

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 この出来事はやがてファッション界の伝説的なエピソードとして広まった。美術史家のパトリシア・アルマー氏は、ミラーはたぶんナストのことを知っており、車の前に飛び出したのは、その目を引こうとした「意識的な判断」だろうと書いている。ほどなくして、ミラーはファッションモデルとしての地位を確立した。

 1929年、ミラーのキャリアは転機を迎える。彼女の写真がタンポン「コーテックス」の宣伝に使われたのだ。生理用品の広告で有名人がポーズをとるのは前代未聞で、当時はスキャンダル扱いされ、第一線のファッションモデルとしての日々は終わったも同然だった。ミラーはヴォーグ誌の裏方仕事に回り、1929年、リサーチの仕事でヨーロッパに向かった。

 そこでミラーは写真家になる決意をする。

シュールレアリストのミューズ、新進気鋭の写真家

 ヨーロッパに渡ったミラーは早速、米国出身のシュールレアリスム写真家で、フランスで有名だったマン・レイに弟子入りすることを決める。パリにあるレイのスタジオに行き、自分より年配のこの写真家を前に、大胆にも自分を売り込んだ。ミラーはすぐさま彼の弟子になり、愛人になり、ミューズとなった。

 レイの写真によってミラーの体はシュールレアリスム運動の中で有名な存在となったが、彼女自身が優れた写真家になったのは本人の努力のたまものだった。

 ミラーはパブロ・ピカソやジャン・コクトーなど、他の芸術家との共同制作にも取り組んだ。フィルムを過度に露出して明暗を反転させて非現実的な効果を生み出す「ソラリゼーション」といった革新的な写真技術や技法を駆使し、自身の芸術的な手腕を高めていった。

 1930年代前半に、ミラーはニューヨークに戻り、自身の撮影スタジオを構え、作品の展示も始めた。エジプト人ビジネスマンのアジズ・エルイ・ベイとの短い結婚生活を経て、ミラーはシュールレアリスト芸術家のローランド・ペンローズと出会う。彼を追って英国に渡り、のちに二人は結婚した。

 ペンローズとロンドンで生活しているときに第二次世界大戦が始まり、ミラーはまた新たに、壁を打ち破る仕事に就く。ヴォーグ誌の従軍記者だ。

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従来の枠にとらわれない戦争写真家

 当時、従軍記者の大半は男性だった。ミラーはシュールレアリストの視点と女性の目線を仕事に取り入れながら、ドイツ軍によるロンドン大空襲を写真で伝え、「ファッション誌が取り上げる記事」の概念を広げるのに一役買った。

 ノルマンディー上陸作戦開始後、ミラーはヨーロッパ大陸に渡り、女性が前線に赴くのを望まない米国当局の反対に遭いながらも、激戦の様子を撮影した。

 最前線に近づくため、ミラーは、友人であり、恋人関係だったこともあるライフ誌カメラマンのデイブ・シャーマンとチームを組んだ。「彼女はサン・マロ包囲戦で、最後まで中にとどまった唯一の女性だった」と後にシャーマンは記している。その勇気と強い意志に感銘を受けたシャーマンは、ミラーと一緒に、ドイツに向かって進軍する連合軍と行動を共にした。

 ヒトラーのバスタブで入浴するミラーの写真を撮ったのはシャーマンだった。連合軍と共にダッハウ強制収容所に足を踏み入れた数日後のことだ。バスタブの前の真新しかった敷物の上には、直前に集団墓地で撮影を行って泥だらけになったミラーのブーツが置かれている。誰のアイデアでそうしたのかはよくわかっていない。

 ミラーはヨーロッパにとどまり戦後の様子も写真に収めた。戦争が女性や子どもに与えた影響を捉えた印象的な写真の数々を残し、自身の技術を磨き続けた。しかし、心的外傷後ストレスや子育てに悩み、戦争写真に対する情熱も失い、心をすり減らせていった。精神を病み、アルコール依存の問題を抱えた。

 戦後、ミラーへの注目度は薄れていったが、伝説的だった彼女の存在は世の中から忘れられていったとする言説は間違いだとアルマー氏は書いている。事実、ミラーは戦後も精力的に活動し、グルメ料理家としても知られるようになり、友人パブロ・ピカソの写真を撮影するなど、芸術の世界で活動を続けた。

 アルマー氏の言葉を借りれば、ミラーは「自分のことは自分で決める行動的な女性アーティスト」として、一度として色あせたことはない。ただ、決して妥協しない新たな自分に変貌しただけだ。ミラーは70歳のときに肺がんでこの世を去った。

 何万枚ものミラーの写真を保管し、伝記を書いた彼女の息子の活動のおかげで、ミラーから受け継がれたものは、今なおファッションや写真、アートの世界に影響を与え続けている。

 かつてミラーは、「写真家の個性、つまり写真との向き合い方は、技術的な才能よりもずっと大切だ」と語っている。幸い、ミラーはどちらも持っていた。近年書かれた伝記と、ケイト・ウィンスレット主演の映画を通じて、若い世代はこのミステリアスで野心的で、新たな道を切り開いていった女性について知ることになるだろう。

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