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英国の謎の地上絵の年代がついに判明、モデルはヘラクレスか

  • 2024年4月10日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

英国の謎の地上絵の年代がついに判明、モデルはヘラクレスか

 英国南西部の農村地帯、サーン・バレーの丘の急斜面に、全長55メートルもの巨大な裸の男の絵が描かれている。いつの時代のものなのか、誰も知らない。その白い線は、緑の草を取り除いて白い石灰岩をむき出しにすることによって作られている。「サーン・アバスの巨人」として知られるこの絵は、それが何なのかを説明しようとする人々を長年の間困惑させてきた。しかし学術誌「Speculum」2024年1月号に発表された最新の研究は、これがいつ、何のために描かれたのかを、歴史との関連とともに明らかにしている。

異教の神か、政治風刺画か、神話の英雄か

 男は片方の腕を伸ばし、もう片方の手にこん棒を握っている。しかしこの絵の最大の特徴は、見紛うことなき男性の象徴だ。その長さは11メートルにも及ぶ。この男が「サーンの野蛮人」とも呼ばれるゆえんだ。

 英国には、主に南部を中心にいたるところに石灰岩を利用した巨大な地上絵が残されている。過去数百年の間に町や軍の連隊の象徴として描かれたものもあるが、「アフィントンの白馬」のような3000年以上前の先史時代に描かれたものもある。

 そのなかで最も謎めいた絵が、このサーン・アバスの巨人だ。古代の異教の神を表しているという説もあれば、17世紀の政治風刺画だという者もいる。

 しかし、考古学的証拠と文化的証拠を組み合わせた最新の研究は、これが1000年以上前に丘の斜面に刻まれたもので、当時この地に住んでいたサクソン人が侵略者のバイキングから畑や家を守るために武器を集めた場所を印しているのではないかと提唱している。

 さらに、絵のモデルは古代ギリシア・ローマ神話の半神半人で、中世初期のイングランドで英雄としてあがめられたヘラクレスだろうと、この研究者たちは考えている。

年代測定

 最新の研究結果を発表したのは、ノルウェー、オスロ大学の中世史学者で、以前は英オックスフォード大学の博士課程に在籍していたトマス・モルコム氏と、オックスフォード大学の中世史学者ヘレン・ギットス氏だ。

 両氏の研究は、英国政府から一部資金提供を受けている慈善団体「ナショナルトラスト」が数年前に実施した考古学調査に基づいている。調査団は「光ルミネッセンス(OSL)年代測定法」を使って巨人の周囲の堆積物を分析し、白い線が最初に削られたのは9世紀か10世紀だったと判定した。これは、1066年のノルマン人によるイングランド征服よりも100年以上前のことだ。

 ナショナルトラストの考古学者で、この発掘リーダーを務めたマーティン・パプウォース氏は、この結果には驚いたと話す。というのも、氏は巨人の絵が描かれたのは1640年代のイングランド内戦中だろうと考えていたためだ。裸の男の絵は、内戦の議会派指導者だったオリバー・クロムウェルを揶揄したわいせつな風刺画だったという説もある。

 パプウォース氏は、モルコム氏とギットス氏の解釈に広い意味では同意するが、この絵は軍隊の集合場所ではなく初期キリスト教徒の巡礼地を印していたのではないかと考えている。

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ヘラクレスは中世初期のイングランドの英雄だった

 巨人が描かれた当初は、ウェセックス地方の様々な場所からその姿を見ることができただろうと、ギットス氏は書いている。そして、この近くにラッパのように吹くと音が出る穴の開いた岩などがあることから、軍隊の集合場所として絵が描かれた可能性があるとしている。

 それならば、戦いの英雄としてローマ帝国崩壊後もヨーロッパでよく知られ、中世初期のイングランドであがめられていたヘラクレスがモデルとなったと考えるのも不自然ではないと、モルコム氏は指摘する。ヘラクレスを描いたローマ時代後期の美術作品の多くは、裸でこん棒を持っていた。

 モルコム氏とギットス氏はさらに、サーン・アバスの巨人が初めて描かれた後数百年も経ってから、初期イングランドの隠修士だった聖イードワルドを表すために再利用された可能性があると書いている。

 巨人の持つこん棒は聖イードワルドが持っていたとされる花咲く巡礼杖に見立てられ、裸の胸に浮き出たあばら骨は禁欲的な隠修士の生活を表しているとして、この近くにあった聖イードワルドゆかりのベネディクト派修道院がこの土地の所有権を主張するために利用したという。

 ギットス氏は、今後の研究でこの説を検証したいと話す。

謎多き有名人

 最新の研究は確かな科学に基づいているものの、決定的な結論を出しているわけではない。ほかにも、サーン・アバスの巨人の起源に関する説はある。

 18世紀のある古文書研究家は、ヘリスという異教の神が巨人のモデルであると提案したが、これは古いラテン語の文献に書かれている名前を読み間違えたことによる誤解だろうと、モルコム氏とギットス氏は考えている。

 ナショナルトラストの調査で地球物理学調査を担当した考古学者のマーク・アレン氏は逆に、巨人はもともと聖イードワルドを表していたが、後にヘラクレスとして解釈されたと考えている。現代の基準であれば、聖人を裸で描くことは適切ではないように思われるかもしれないが、中世の時代にはほとんど気にされていなかったはずだという。

 巨人の丘のすぐ南にあるサーン・アバス村の教区牧師を務めるジョナサン・スティル氏は、さらに別の説を支持している。巨人の絵は今回の研究が示しているよりもさらに古く、紀元前の鉄器時代にこの地に住んでいたデュロトリゲス族の紋章だったというのだ。

 スティル氏は、アフィントンの白馬も鉄器時代にそれを描いた部族の紋章だったと考えられていることを指摘し、「サーン・アバスの巨人は、彼らの領土のちょうど真ん中に位置しています。当時の人々は、息子のために新しい妻をめとったり、娘のために新しい夫を迎えるといった儀式のために、この場所に集まっていたのではと思います」と話す。

 起源は何であれ、サーン・アバスの巨人は今や地元の有名人だ。スティル氏は、さらにこう付け加えた。「人々はこの巨人をひどく誇りに思っています。最初に巨人を描いた人々も、とても誇りに思っていたと思います。この辺では最も『大きな』人物ですから」

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