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Vol.150 電気を主体的に選ぶって、どういうことなんでしょう?

  • 2014年7月10日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。この連載も、今回でなんと150回を迎えることができました。隔週連載で150回ということは足掛け7年ということになるそうで、よくもそれだけの間いろんな妄想を繰り広げられてきたなあと、我ながら感心するところもあるわけですが、これからも変わらぬ調子で妄想を展開しつつ、その一方でいろんな人やいろんな現場に出かけていきたいと思っていますので、ひき続きよろしくお願いします。

 さて、前回は電力小売り自由化がスタートしたら、ぜひ主体的に電気を選びたいと思っている、というところまで書きました。ただ、さらによく考えていくと、「主体的に選ぶ」というのはどういうことなんだろう?ということも気になり始めました。

隣家 例えばひとつの予想として、2016年の自由化とともに、ということはないにしても、それから数年後にはこれまでの社会では有り得なかったような規模の電力事業者が登場すると思うんです。それは、発電に関する技術が進歩することで初期投資の規模が小さくなるということ以上に、利用者側のつながり方というか、利用者同士のコミュニティーの有り様が大きく影響すると思っていて、言い換えればインターネットの発展と似たようなモデルがあり得るんじゃないかなっていう。つまり、大きな資本が中央にあって、そこから電気が配られるという形ではなく、個人レベルでの発電が相互につながっていき、その結果として大きなネットワークが生まれるというようなイメージですね。そこでは、例えば僕が両隣の所帯と電気の仕組みを相互乗り入れして融通するようにし、その両隣もまた近所と電気をやりとりするようになると、結局その界隈は大きな電信柱を建てて中央から電気を受け取らなくても、電気が賄えるという状況が生まれるんじゃないかと思うわけです。となると、そこで「主体的に選ぶ」対象は電気よりもそういう状況なのかもしれません。

 あるいは、インターネットのオークションで電気が売られるということだって起こりうると思いますが、例えば「Aというアーティストが自転車を漕いで起こした電気をいくらで買いますか?」みたいなオークションがあったときに、それを落札する人は電気よりもAというアーティストとのつながりを求めているのかもしれません。

 結局のところ、自由になるということは、根本に立ち返る必要が生じるということなんだろうと思うんです。不自由というのは選択肢がないということですから、それはある意味では楽なんですが、自由になって選択肢が生まれると、どれを選ぶか考えなければいけなくなるので、そこであらためて“自分は何を求めていたんだっけ?”というところに立ち返ることになりますよね。さらに言えば、今は髪を乾かすのにも部屋を明るくするのにも電気を使っているけれど、それぞれの必要を解消するのは絶対電気でなければならないのかな?とか、それぞれ電気を使うにしても、その課題ごとに適した使い方をしてるかな?とか、いろいろと考えるべきことはあるように思います。

 ちなみに、都市ガス事業も早ければ2016年には完全自由化が実現する見込みで、そうなれば電気と同様、価格競争が始まったり、新たなサービスが生まれてくるでしょう。僕自身は、電気の自給自足について考えていくなかで、この連載でも紹介したエネファームについて調べているうちに、この都市ガス事業の自由化というニュースに行き当たったのですが、世の中の流れとしては電気もガスも「エネルギー」というひとつの容れ物のなかでその扱い方を考えたほうがいいような状況に進んでいるんでしょう。そして、そこでもやはり基本となるのは、根本に立ち返って考える、というスタンスなんだろうと思っています。

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