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『美と殺戮のすべて』が映すナン・ゴールディンの肖像。痛みに満ちた生が「美」を通して立ち上がる

  • 2024年3月29日

Text by 後藤美波
Text by セメントTHING

1970年代から、自身の体験や周囲のコミュニティの姿を記録した個人的な視点のポートレートで高い評価を獲得し、後世の写真家にも大きな影響を与えた、ナン・ゴールディン。そのドキュメンタリー映画『美と殺戮のすべて』が公開される。『第79回ヴェネチア国際映画祭』で金獅子賞を受賞した本作は、アメリカで社会問題化したオピオイド危機に対し、自身のアーティストとしての地位を活用しながら抗議運動を行なう彼女の姿と、自身の言葉や作品で振り返られる半生が絡み合いながら進んでいく。姉の自死が人生に大きな影響をおよぼしたというゴールディンは、なぜ戦いつづけるのか。監督が「普通の伝記映画にはしたくなかった」という映画のアプローチに着目しながら、ライターのセメントTHINGが綴る。

イギリスの国際的な現代アート雑誌『ArtReview』が、「その年の現代アート界において最も影響力のあった人物」を選出するランキング「Power 100」。変化の激しいアートワールドにおける指標の一つとなるこのリストで、昨年度1位となったのがアメリカの写真家、ナン・ゴールディンだ(*1)。


『ArtReview』は選出理由について、ゴールディンがアーティストとしての一つのありかたを明確に示したことを挙げている。ただ対象を記録・目撃するだけではなく、スポークスパーソン、アクティビスト、告発者として倫理について発言していく。その姿勢が彼女をリストのトップに押し上げたのだと。


それではゴールディンは具体的にどんな活動を通し、それを実践してきたのだろうか? まさにそれを捉えたのが、ローラ・ポイトラスによる長編ドキュメンタリー映画、『美と殺戮のすべて』である。


監督自身が「普通の伝記映画にはしたくなかった」(*2)と語るこの作品は、ナン・ゴールディンという稀代の芸術家を描くうえで、一風変わったアプローチをとっている。それはどのようなものなのか、作家について紹介しつつ、この作品が持つ魅力に迫っていきたい。

『美と殺戮のすべて』はまず、ゴールディンが設立した、オピオイド危機の責任を追及する団体「P.A.I.N.」が、メトロポリタン美術館で抗議運動を行なう映像から始まる。


「オピオイド危機」とは、2017年にトランプ大統領(当時)が「公衆衛生上の非常事態」を宣言した、麻薬性鎮痛薬オピオイドの急速な広まりにともなう薬物乱用や依存症の増加などの問題を指す言葉だ。背後には大手製薬会社パーデュー・ファーマ社が1995年に承認を受けたオピオイド系処方鎮痛薬「オキシコンチン」を「常習性が低く安心」と謳い積極的に販売した結果、医療機関による過剰な処方へとつながり、膨大な数の依存症患者と中毒死を生み出した経緯がある。


ではなぜメトロポリタン美術館がオピオイド危機に対する抗議の場となったかというと、パーデュー・ファーマを所有する「サックラー家」が美術方面に多額の寄付を行なっており、世界中の美術館の展示スペースがサックラーの名を冠していたからだ。「サックラー・ウィング」という展示室のなかで、「オキシコンチン」のラベルを貼った無数のピルケースを投げ、ダイ・イン(※)を行なうゴールディンの姿は、彼女が現役のアクティビストであることを強烈に観客に印象付ける。



『美と殺戮のすべて』場面カット © 2022 PARTICIPANT FILM, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

その後、映画はゴールディンが自身の生い立ちを語るパートに移る。身体性を感じさせる少し掠れた声による語り、数多く引用される写真の力もあって、観客はたちまちそのライフヒストリーへと引き込まれることとなる。オピオイド危機に抗議するゴールディンの政治運動/自身の人生を振り返る彼女自身の語り、基本的にこの2つを交えながら映画は進んでいくことになる。

このようにまとめると、それこそよくある著名人の伝記映画なのではと思う人もいるかもしれない。だがここで重要なのは、この映画のなかでゴールディンという人物について語るのは、ほぼ彼女一人だけだということだ。


P.A.I.N.のメンバーや協力者などが抗議運動の経緯や意義について語る場面はあるが、それはあくまで運動に関わることであり、「ナン・ゴールディン」という人物の来歴について語るのは、もっぱら本人の写真と声のみである。彼女が彼女自身の視点から自分の人生を振り返り、その延長にある彼女のいまを捉える。それがこの『美と殺戮のすべて』という映画なのである。


これはある著名な人物を追うドキュメンタリーとしては、かなり変わったアプローチだ。通常大きな業績をあげた人物についてのドキュメンタリーをつくる場合は、専門家による解説があったり、知り合いによる印象的なエピソードがあったりと、本人だけではなくさまざまな視点からの語りを積極的に導入することが多い。そうすることで、被写体の知られざる側面を明らかにし、その魅力をうまく印象付けることができるからだ。


ではなぜこの作品はそのような手段を選択しなかったのだろうか? それは「徹底して個人的な視点からの語り」が、まさにナン・ゴールディンという芸術家の表現の中核をなしていたからだろう。


作中に登場するナン・ゴールディンのポートレイト Photo courtesy of Nan Goldin

ここでいったん、ナン・ゴールディンがどのような作家なのか、基本的なところを説明しておきたい。


1953年にワシントンD.C.に生まれ、アメリカ各地の閉塞的な郊外の街で育った彼女は、親しかった姉の自死により両親との関係が決定的に悪化。家を出て進歩的なフリースクールに通うようになり、そこで写真と出会う。


18歳になったゴールディンはボストンのドラァグ・バー「ジ・アザー・サイド」に出入りするようになり、親友を通して知り合ったクイーンたちと共同生活を始める。そしてそれをきっかけに、彼女は親密な関係にある友人や恋人、彼女が「ファミリー」と呼ぶ人々の写真を撮影し、そのあり方を自分なりに記録し始めるようになる。


作中に登場するナン・ゴールディンのポートレイト Photo courtesy of Nan Goldin

1978年にNYに移り住んだゴールディンは、薬物依存やDV被害などの私生活上の問題に直面しながらも、それらすべてを表現へと果敢に取り込んでいく。それが結実したのが、『ホイットニー・ビエンナーレ』で発表したスライドショー作品をまとめた、1986年刊行の初の写真集『性的依存のバラード』だ。


自身の体験を包み隠すところなく表現したこの作品は、個別具体的な生を掘り下げることで、その背後にある社会的問題や普遍的な生の経験について鑑賞者に強く訴えかけるものだった。この表現手法はやがて現代の写真表現の一つの潮流となり、後続の作家に大きな影響を与えることとなる(※)。彼女は作家の個人的な体験や生のあり方を記録し伝えることを目的とした写真表現における評価基準をつくり上げた、重要な作家の一人とみなされている(*4)。

以上がゴールディンの簡潔な経歴となるわけだが、ここからわかるのは、彼女の表現の根底にあるのが、まさに自身の生をまなざし、それを率直に語るところにあるということだ。彼女にとって生きることは表現と不可分であり、ある意味で人生そのものが彼女の芸術なのである。表現の手法は年々洗練され進化してはいるものの、作家としての姿勢は活動を始めた当初から驚くほど一貫している。


そしてだからこそ、ナン・ゴールディンという芸術家の存在を伝える作品である『美と殺戮のすべて』は、作家本人が映画のナラティブの語り手を務める必要があったのだといえる。彼女自身の語りからは、彼女がどのような人生をどう生きてきて、それについて何を考えて感じてきたのかということがまざまざと伝わってくる。また、彼女の写真作品が数多く引用されることで、彼女が自分の人生にどんな視線を向けてきたのかということも、くっきりと感じ取れるようになっている。


『美と殺戮のすべて』場面カット © 2022 PARTICIPANT FILM, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

この作品には専門的見地から「この作家はこのような作風で」と説明するシーンはほとんどない。だがこの手法を選んだ結果として、自らの人生に徹底して目を向けるゴールディンの芸術のあり方が、直感的に伝わってくるようになっているのだ。


ここでの彼女の語りをその表現の延長線上にあるものとして捉えるなら、この映画はローラ・ポイトラスの作品であると同時に、ナン・ゴールディンによるパフォーマンスの記録でもあるといえるだろう。『美と殺戮のすべて』は一人の表現者のコアにあるものを、観客に的確に届けることに成功している。監督自身がこれをゴールディンの「肖像」と表現している(*2)のも納得がいく話だ。

ただこのように大きな成果をあげた本作品の構成だが、このようなナラティブ上の工夫を行なうことは、一種の賭けでもあったと思われる。なぜならこの選択をするということは、作品のかなりの部分を被写体本人の語りに託すということだからだ。その場合2時間近く観客の関心を持続させるためには、被写体がよっぽど複雑で面白い人物でなければならない。だが監督はそんな難題を見事にクリアした。それはやはりナン・ゴールディンが、まさにそのような興味深い存在であったからだろう。


前述の通り、ゴールディンはドラァグ・バーにおける撮影からその活動を開始し、自らの関心や感情の赴くまま、社会の周縁にある人々へ真っ直ぐその視線を向けてきた。自身もバイセクシュアルであるゴールディンが捉えたその姿は、2020年代を生きる観客の目線からすると、その現代性に驚かされるに違いない。


多様な人種やセクシュアリティの人々が寄り添いあい、いきいきと生を謳歌する。多くが友人たちとの親密な瞬間を切り取ったその写真は、世間一般の固定観念や偏見とは清々しいほどに無縁であり、被写体となった人々の自然な魅力を見事に結晶化させている。


作中に登場するナン・ゴールディンのポートレイト Photo courtesy of Nan Goldin

「インターセクショナリティ」(※)という概念が広まるはるか前の1970年代から、ゴールディンは自身も含め、周縁に追いやられた多様な人々がもつ固有の尊厳や美しさに弛むことなく向き合ってきた。その姿勢はやがて彼女の属する共同体を襲ったエイズ禍への抗議、そして数十年後には自身も依存症に苦しんだオピオイド禍に対する抗議へと当たり前のようにつながっていく。

創作と政治と人生が分かちがたく結びつき、血まみれの痛み(bloodshed)に満ちた激動の生が、「美」(beauty)を通して立ち上がる。映画によって明らかになるその軌跡は、一人の類稀なる芸術家の存在を教えてくれると同時に、人が自身の生を真摯に生きるということについて、深い示唆を与えてくれる。


作中に登場するナン・ゴールディンのポートレイト Photo courtesy of Nan Goldin

この作品はゴールディンの語りとその抗議運動に寄り添いながら、だんだんと彼女の表現の背後にあるものに迫っていくような流れになっている。なかでも最も感動的なのは、彼女の姉を巡るエピソードだろう。


姉が自ら命を絶ったとき、母親はそれをゴールディンから隠そうとした。世間への配慮やさまざまな抑圧のために、明白な事実が否定されそうになったのだ。彼女は強く反発し、それが彼女の芸術家としての運命を決定づけることになった。彼女はなにも否定せず、ただ見ることに決めたのだ。


最後に彼女が姉についての「真実」を語るシーンには、芸術が人の人生をどのように反映できるのか、表現というものがいかに人間の感じることを形にできるのか、それが持つ力を強く感じさせるものがある。優れた芸術家の存在を通して、芸術が人生において必要とされるある瞬間を、『美と殺戮のすべて』は見事に捉えているといえるだろう。


2024年の現在、パレスチナ・ガザ地区での人道危機を受け、アートとアクティビズムの関係を問い直すような出来事(※1)が日本を含め世界中で起こっている。もちろんそれぞれのケースにおける各種の条件は違い、その差異についてはおおいに議論がなされるべきだ。しかしどのような立場をとるにせよ、社会問題に対するナン・ゴールディンの不屈の姿勢(※2)を目にすることからは、得られるものが大きいことは間違いない。


このような状況下だからこそ、『美と殺戮のすべて』は広く観られるべきだろう。あらゆる意味において、いま必見の一本だ。


『美と殺戮のすべて』ポスタービジュアル © 2022 PARTICIPANT FILM, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

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