「ジムキョクチョー」なんて立場にいると、ときどき人前で話すよう頼まれます。しかし、それほどの思考のストックが常にあるわけもなく、ぼんやりと頭の中をめぐる思いをつなぎあわせてくれる「ことば」を探し、その度にあわてて本をパラパラとめくるのです。
鷲田清一さんの『教養としての「死」を考える』(洋和社)という本の中に、こんなことばがありました。
第三者というのは、基本的に無責任だからよいところがあります。(中略)無責任だけれども関心だけはちゃんと持っていてくれて、「やぁ、どうしてる」程度の言葉をかけてくれるところが、いいわけです。
「おぉ、これこそキャンプカウンセラー(参加者とともに活動する立場の指導者)のことではないか!」と思いながら、読み進めます。
私は、適切な第三者になれるということが、人が成熟するということではないかと思っています。人と人との間に、赤の他人としてではなく関心を持った第三者として立つことができるようになるということ、それをいろいろな場所で実現できるようになるということ、それが人間の成熟というものの尺度なのではないかと思うのですね。
「なるほど。つまり、キャンプにかかわることが、人を成熟に導くわけだ‥。」
こうなると、「勝手な解釈ここに極まれり!」という感じですが、実はけっこう本気です。キャンプカウンセラーはキャンプでの役割ですから、参加者の生活全般に関しては無責任にならざるを得ません。それでも、ちゃんと関心を持って、キャンプの時間をともに過ごすわけで、そうした経験は、彼らを「成熟」に導くに違いないと確信するのです。
だから、社会人になる前の若者にたくさんキャンプカウンセラーを経験してほしいのだけれど、最近はいつも人不足。私が学生のころとは違って、大学生は大忙しなのだとか。お勉強も大事だけれど、人を成熟に導く装置であるところのキャンプにもっとかかわってほしいなぁと、ジムキョクチョーは無責任におもうのです。