東海エリアを中心に活躍するエンターテインメント集団・BOYS AND MEN(通称・ボイメン)を2024年3月31日に卒業し、俳優として新たな一歩を歩み出した勇翔(ゆうひ)さん。そんな彼に、自身の幼少期やこれまでの活動を振り返りつつ、今後の展望を率直に語ってもらった。
■祖母と過ごした幼少期。村の外の世界を見たかった
――まずは自己紹介をお願いします。
【勇翔】出身は、長野県上高井郡高山村です。「勇翔(ゆうひ)」は本名で、名前の由来は親に聞いたことがないのでわかりません(笑)。漢字が“勇”ましく、”翔”けるなので、漢字そのままの意味なのかなと。4歳下の弟もちょっと珍しい名前なので、おそらく少し変わった名前を付けたかったのかなと思います。
――ご家族について教えてください。
【勇翔】家族構成としては、僕と弟、母、そして祖母ですね。小学校2年生のころに両親が離婚して、当時住んでいた長野県茅野市から祖母のいる高山村へ引っ越しました。母が仕事の都合で家を空けることが多かったので、祖母が僕と弟の面倒を見てくれていました。
――幼少期は、どんな子どもでしたか?
【勇翔】昔から好きなことをとことんやるタイプで、それは今とあまり変わっていないかもしれません。子どものころはプラモデル作りに夢中でした。年長のころから小学校6年生まで、週に3、4日水泳教室に通っていたので、水泳は得意です。当時は大会にも出場していました。あと、宿題を全然提出しなくて、先生にめちゃくちゃ怒られていましたね。でも、いくら怒られてもやらない(笑)。そんな子どもでした。
【勇翔】中学生になってからは、週末になると一人で自転車に乗り、片道約20キロの距離を走って高山村から長野市まで出かけて映画館に通っていました。そのころは「村の外に出てもっといろいろなものが見たい」という好奇心が強くて……。自転車で遠くまで出かけていましたね。
――芸能界を志したきっかけを教えてください。
【勇翔】子どものころから、特撮ヒーローが大好きなんです。平成の仮面ライダーシリーズも好きですが、戦隊ものや、メタルヒーローシリーズ、「ゴジラ」シリーズなど、テレビ放送はもちろん、レンタルショップでVHSやDVDを借りてよく見ていましたね。「お芝居」を見ること自体が好きで、特撮のほかにも映画やテレビドラマ……いろいろなジャンルの作品を見ました。当時の同級生と比べても、見ていた本数は明らかに多かったんじゃないかな。
【勇翔】とはいえ、はじめから芸能界に興味があったわけではなかったんです。なにかモノを作ったりイジったりするのが好きだったので、工業系に進もうと思っていて。工業を学べるコースのある高校へ進学しました。
【勇翔】でも、入学して間もないころ、工業コースで学ぶ大きな機械を初めて触った瞬間「あ、自分がやりたいのはこれじゃない」と気がついて……。せっかく工業が学べる高校に進学したのに、やりたいという気持ちがゼロになってしまったんです。
【勇翔】そこで「じゃあ自分は将来何がしたいんだろう?」と改めて考えたときに、もうひとつの昔から好きだったもの……「お芝居」の世界にチャレンジしてみようと思いました。
■上京の予定が名古屋に!?BOYS AND MENとして活動がスタート
――そこから、どういった経緯で以前の所属事務所(タニプロモーション※後に同グループのフォーチュンエンターテイメントにも所属)に入所されたんでしょうか?
【勇翔】高校2年生のころから、オーディションを受けるようになりました。とりあえず本屋さんに行ってオーディション関係の雑誌を買って読んで、応募して……という感じで。その中で複数の事務所さんに自分のプロフィールを送れるオーディションサイトを見つけて、登録したところ何社かお返事をいただけて。その中のひとつがタニプロモーションでした。
【勇翔】いろいろな事務所の面接を受けさせてもらったんですが、タニプロモーションの(谷口誠治)社長が「うちに所属してくれた人は、絶対に売れるまでサポートするから」と言ってくれて。社長のその言葉と、スタッフの方の雰囲気もすごくいいなと思ったので、入所を決めました。
【勇翔】高校を卒業したら上京する予定だったのですが、高校3年生になって卒業時期が近づいてきたときに、事務所から「名古屋で芝居をするグループを作るから、卒業後は名古屋に来てほしい」と言われました。それがBOYS AND MENです。
――俳優を志して事務所に所属して、BOYS AND MENとして活動することにとまどいはなかったですか?
【勇翔】そうですね。BOYS AND MENは今でこそ歌って踊る、アイドルのようなグループになっていますが、当時は“お芝居をする男性の集まり”という形だったんです。「まずは舞台でスキルアップしよう」と事務所にも言われていたので、加入することに抵抗はなかったです。
――加入当初はどのような活動をされていましたか?
【勇翔】2010年、僕が高校3年生の冬休みで名古屋に訪れた際に、グループの旗揚げ公演であるミュージカル「ストレートドライブ!」のゲネプロを見させてもらいました。僕の高校卒業後もその公演は続いていて、最初の仕事は「ストレートドライブ!」への出演でした。
【勇翔】2011年4月から1年間は、オードリーさんがMCをされていた中京テレビの「サタメン!!!」という番組に出演させていただきました。そこで「第34回 24時間テレビ 『愛は地球を救う』」と連動した「キッズキャラバン隊」として、1カ月半かけて愛知県・三重県・岐阜県の全市町村を回るという企画にも参加しました。
――そのころ、ほかに印象に残っているお仕事はありますか?
【勇翔】名古屋ドームで開催された「東京ガールズコレクション」にモデルとして出演させてもらったことですね。当時、僕は「東京ガールズコレクション」がどんなイベントなのかすら知らなくて……。アルバイトのシフトと日程が被っていたので断ろうかと思い、事務所に相談したら「すごいイベントだから絶対に出なさい」と怒られて(笑)。当日、会場を見て「こんな大きなランウェイを歩くのか!?」と驚きました。
■BOYS AND MENとして活動した13年間。かけがえのない経験
――BOYS AND MENとしての活動はいかがでしたか?
【勇翔】正直に言うと、BOYS AND MENが歌やダンスのパフォーマンスをし始めたころは、複雑な気持ちがありました。「ストレートドライブ!」や、そのあとの作品「ホワイト☆タイツ」などのミュージカル中に歌うことには抵抗はなかったのですが、グループの方針として歌とダンスをしっかりやる流れになってそういったイベントも増えてきて……どこかに「あれ?自分は歌とダンスをやりたかったんだっけ?」という思いがあって。
【勇翔】というのも、学生のころから音楽が本当に苦手だったんですよ。音楽の授業で習うリコーダーや鍵盤ハーモニカも、指揮に合わせられないくらい。楽譜を見て演奏しようとしても、指の動きが追いつかなくて。どうやって音楽の授業を乗り切ったかというと、音楽を奏でるのではなく「完璧に体で覚える」ことでカバーしていました。だから「これから自分の苦手な歌とダンスをずっとやっていくのか……」という葛藤があったんです。
【勇翔】ダンスの振り付けを覚えるのは早いほうだと思います。でも覚えたところで、先生が教えてくれたようには踊れないんですよ。本当に、ダンスも歌も全然ダメで。ライブ中に、音や動きが合っていないことも多々あって、周りからも「できていない」って思われていたんじゃないかな。13年やりましたが、結局、卒業するまであまり改善されてなかったですね(苦笑)。
――一方で、お芝居をすることはずっと好きだったんですよね。
【勇翔】はい。根本的に、僕は自分があまり好きじゃないんです。でも、お芝居だったら、自分じゃない誰かになれる。「自分がほかのキャラクターになっている」というのが好きで、楽しかったんです。それが役者を目指す決め手になりました。
――たくさんのファンの方に「好き」と言われてきた勇翔さんですが、それでも「自分が好きじゃない」という気持ちはまだありますか?
【勇翔】うーん……。活動を通して、自分の好きな一面を見つけることはできました。それでもいまだに「自分のここの部分は好きじゃないな」と感じることはあります。
――自分の「好きな部分」「嫌いな部分」って、どんなところでしょう?
【勇翔】好きなのは、自分の好きなことをとことんやる、というオタクっぽい部分ですね(笑)。BOYS AND MENの活動やメンバーとの交流を通して、それが自分のいいところなんだと気づきました。
【勇翔】逆に、自分のイヤな部分は、何ごとにおいてもセンスがないところです(笑)。BOYS AND MENのメンバーは、僕から見たらセンスの塊みたいな人間ばかりなんですよ。「なんでそれができるんだろう?」ってずっと思っていました。
――そんな“センスの塊”なメンバー、たとえばどなたでしょうか?
【勇翔】たとえば吉原(雅斗)は、ダンスもうまいしスポーツをさせても一発でできちゃう。僕には絶対できないので、すごいなって思います。
――吉原さんのセンスを尊敬していることを、本人にも伝えていますか?
【勇翔】言いましたよ。「ありがとう〜」って返されました(笑)。
――BOYS AND MENの活動で印象に残っているのは?
【勇翔】最初に思いつくのは、2015年2月に開催した「日本ガイシホール」での1万人ワンマンライブですね。
【勇翔】BOYS AND MEN初の冠レギュラー番組である中京テレビのバラエティー「ボイメン☆騎士(ナイト)」と連動して、1万人の集客を目指すという企画で……。当時、僕たちがライブをしていたスタジオのキャパシティーは150人くらいだったんです。そこから1年間かけて、1万人ものたくさんの方に見ていただけるようになったという、自分たちの成長を実感した機会でした。
【勇翔】ライブが始まる前に、客席が映るモニターで会場を見て、ほとんどのメンバーが泣いていたんですよ。「始まる前にみんなが泣くなんておかしいだろ!」って突っ込みましたが(笑)。ライブのあとではなく、始まる前に泣いたのは、このときだけだと思います。
――勇翔さんはBOYS AND MENとして活動しながら、俳優としても活躍されてきました。その中で印象に残っているお仕事は?
【勇翔】いろいろな思い出がありますが、ひとつ挙げるとすると、特撮テレビドラマ「牙狼<GARO>」シリーズの「GARO -VERSUS ROAD-」(2020年放送)に出演できたことですね。
【勇翔】「牙狼」はテレビ東京系列で、テレビ放映時には長野県で見られなかったんですが、レンタルショップで出合ってからこのシリーズにハマっていて。ずっと好きだった作品に関われたことはすごくうれしくて、ありがたいことだなと思いました。
――BOYS AND MEN在籍中、メンバーはどのような存在でしたか?
【勇翔】メンバーとは家族というかお互い気の知れた仲間という感じで。ここ何年も、仕事でトークをするときに事前打ち合わせをしていません。相談しなくてもその場でどんどん会話が進むし、むしろ話しすぎてライブ時間が延びてしまうことも多いくらい(笑)。
【勇翔】休みの日は、僕はほかのメンバーとほとんど会いませんでしたね。毎日ずっと一緒に仕事していると、逆にプライベートは一人にさせてほしいなって(笑)。
――卒業後、メンバーが恋しくなりませんでしたか?
【勇翔】卒業してまだ3カ月なので、「メンバーに会いたい」というのは今のところないですね(※インタビューは2024年5月中旬に実施)。在籍中も、芝居の仕事があるときは、2、3カ月間メンバーと会わないこともあったので。あ、でも卒業前から約束していた「メンバーみんなでカニを食べに行く」のも実現しましたし、先日BOYS AND MENのレギュラーラジオ番組にゲスト出演させてもらったので……卒業してからも会ってます(笑)。今までよりも物理的には離れていますが、心の距離が開いたという実感はないです。
――今まで、メンバーの卒業をどのように感じていましたか?
【勇翔】正直、初めは卒業を決めたメンバーに対して「なんでやめるんだよ!?」と言う気持ちがありました。まだ全然仕事がなかったころから地道に活動を続けて、やっと日本ガイシホールでライブができるところまで来たのに……と。
【勇翔】卒業するメンバーとは、どんな気持ちなのかきちんと向き合って、メンバー同士でしっかりと話し合いを重ねました。ただ、話しても本人の意思は変わらないんですよね。僕自身も頑固な性格で、一度これだ、と決めたら考えが変わらないタイプなので、気持ちは理解できます。本人の決意が固いならもうこれ以上説得することはない、とメンバーを送り出してきました。
■卒業を決断。メンバーとの会話と卒業ライブまでを振り返る
――ご自身の卒業は、いつごろから考えていたのでしょうか。
【勇翔】2023年3月くらいです。卒業というよりは、グループ活動をしながらお芝居の仕事もたくさんやらせていただくなかで、芸能界を志したきっかけである「お芝居をやりたい」という目標を思い返したんです。
【勇翔】歌やダンスは苦手だけど絶対に将来役に立つから頑張ろう、という心持ちでやってきましたが、だんだんと「本気でお芝居に取り組みたい」という思いが強くなりました。でも、これから先もグループに所属しながらだと、自分の追い求める役者像に近づくのはなかなか難しいんじゃないかなと思いました。
【勇翔】僕はオタク気質であまり器用ではなく、集中するとひとつのことしかできないんです。だから、芝居に集中するために、歌とダンスはいったんここで終えよう、と決めました。
――最初に誰に卒業を伝えましたか?
【勇翔】メンバーです。最初に了承を得ないといけないのは、これまで一緒に頑張ってきたメンバーなので。卒業に限らず、大きな決断をする際にはまずメンバーに話すべきだと心に決めていました。
――どのようなシチュエーションだったのでしょうか?
【勇翔】全員がそろっているときに切り出しました。重い感じではなく、普段の世間話の流れで「実はこう思っていて、そろそろ卒業したと思ってる。いいかな……」みたいな。暗い空気ではなく、その場では「そっか。じゃあちょっと一旦、みんなで考えてみるか」という反応でした。そこから何度か話し合いを重ねて、メンバーにも理解してもらって卒業ということになりました。
――メンバーに卒業の話を切り出すときは、どんな心境でしたか?
【勇翔】うーん……13年間一緒に過ごしてきて、もうお互いの気持ちはだいたいわかる仲なので、緊張というほどではなかったですね。自分の中で意思が固まっていたのもあって、“軽い相談”ぐらいのニュアンスといったほうが近いかもしれません。しっかり気持ちを伝えたら、きっとメンバーもOKしてくれるだろうなと思っていました。もし自分が逆の立場でも、反対しなかっただろうと思います。
――事務所の谷口社長にも快く応援してもらえたそうですね。
【勇翔】そこはびっくりしました(笑)。13年間もお世話になったのに「やめます」っていうのは申し訳ないという気持ちがあったのですが、「たとえBOYS AND MENであろうとなかろうと、うちの事務所に所属していようとしていなかろうと、勇翔自身が売れることが俺の一番の願いだから」と言ってくださって。そこまで思ってくださるなんて、本当にありがたいことですよね。
【勇翔】メンバーやスタッフ、ファンのみなさんに、ここまで盛大に送り出してもらえると思っていなかったので、本当に感謝しかないです。
――2024年3月17日には、日本特殊陶業市民会館 フォレストホールで卒業公演「俺、卒業します 頭文字Y Final Stage 〜魂の鼓動、一万一千回転までキッチリ刻め!!〜」が開催されました。振り返ってみて、いかがでしたか?
【勇翔】基本的にライブのセットリストは(平松)賢人が作ってくれているんですが、今回は僕と賢人で一緒に考えました。重要な節目のライブにはお決まりの曲があって、実は「毎回同じになっちゃうな」と思っていたんですが、いざ自分が卒業となると「いや……BOYS AND MENといえばやっぱりこの曲たちは外せないな!」と実感しました(笑)。
【勇翔】メジャーデビューしてからもたくさんの曲を歌わせてもらいましたが「Chance for Change」や「We never give up ーもう一度ー」など、活動初期のころに歌っていた曲はずっと心の中にあったなぁって。
【勇翔】どうしてもやりたかったのは、山口百恵さんが引退するコンサートでマイクを置いて去っていったように、BOYS AND MENを象徴する"学ラン”を脱いで終わらせるという演出(笑)。
【勇翔】当日、学ランを脱いだ瞬間、「あ、BOYS AND MENとしての勇翔はこれで終わりなんだな」と、悲しい気持ちが襲ってきました。でも、学ランをしっかりとマイクスタンドにかけて、ステージからはけたときには、すごくすっきりした気持ちで。終了後は悲しいというより「最後に全部出し切った」と心から思えるライブでした。
――初期のころから続けている観客とのハイタッチも全力でされていましたね。
【勇翔】舞台から降りて、猛ダッシュで4階から1階まで、全力で走りました。めっちゃ大変でした(笑)。普段のライブでのハイタッチは、メンバーみんなでバランスよく振り分けていたので、そんなに走らなくてもいいんですが、今回は自分の卒業ライブなので一人でも多くの人とハイタッチしたくて。1時間半以上ライブしたあとの全力疾走だったので息切れもすごくて、ここで倒れるんじゃないかな?と思いましたが(笑)、どうにかやり切ることができました。
■俳優、車の仕事、いろいろなことにチャレンジしたい
ーー 今後、挑戦したいお仕事について教えてください。
【勇翔】まずは俳優としてお芝居に全力投球したいです!今までは誠実な男性の役柄が多かったのですが、悪役とかクレイジーな役どころなど、今まで自分がやったことがない芝居もどんどん演じてみたいですね。そして役者としての自分の強みを見つけて、「役者・勇翔」を確立していけたらなと思っています。
【勇翔】あとは「車」関係ですね。僕はとにかく車が好きです!特に下道での長距離移動なら任せてください(笑)。一番遠くだと、名古屋から宮城県の牡鹿(おしか)半島まで、休憩を挟みながら約22時間かけて行ったことがあります。
【勇翔】僕は今、トヨタの86ZN6というマニュアル車に乗っているんですが、高速道路だとシフトレバーの“ガチャガチャ”をしなくなるんですよね。それだと自分が車を操作している感覚が味わえなくて、つまらなく感じてしまって……。下道だと、行く先々で景色が変わるし、左折したり右折したりするのも楽しい。せっかく遠出するなら、その道程も楽しみたいんです。
――車はいつからお好きなんですか?
【勇翔】高校を卒業してすぐに名古屋での芸能活動がスタートしたので、実はなかなか運転免許をとるタイミングがありませんでした。映画の撮影中に軽トラを運転するシーンがあったときも、スタッフさんに代理で運転していただいて。でも、これから俳優を続けるなら、自分で運転できないとだめだなと。そこで4年半前に教習所に通って、免許を取得しました。
【勇翔】免許取得のきっかけになった映画の撮影時に使われた軽トラがマニュアル車だったので、1台目の車はマニュアルにしよう!と。そして86ZN6を買って、車熱が爆発しました(笑)。
――映画のお仕事がきっかけだったんですね。
【勇翔】はい。でも自分の人生を振り返ると、自分が車好きになる要素は昔からあったと感じます。というのも、母がテレビアニメの「頭文字D(イニシャル・ディー)」が好きで。その影響で僕も子どものころから一緒に見ていて、今でも好きな作品です。当時母がこの作品にハマりすぎて、主人公と同じ車を買って物語の舞台となる群馬県の峠に一緒に走りに行ったこともありました。今、僕が86ZN6に乗って全国の峠を巡っているのは、その影響が大きいですね。
――愛車のこだわりポイントは?
【勇翔】僕の場合、車の外観をかっこよくしたいとか、サーキットで早く走りたいという希望はあまりなくて、やはり母の影響で「峠を走る」っていうのが中心にあるみたいです。峠の道路には石や木がよく落ちているので、車高が低すぎると走りにくい(笑)。車好きな方の中には、趣味の車と日常使いの車を分けている方もいらっしゃいますけど、僕はとにかくこの車がすごく好きで、1台ですべて賄いたい。事務所にお邪魔させてもらったり、取材に行ったりと仕事のときも含めて移動手段として普段から乗っているので、あまりに爆音すぎるのはダメです(笑)。なので、「いかに楽しく運転できるか」をコンセプトにしています。
【勇翔】もちろん、お仕事としても車に関わることができたらすごくうれしいです!今でもありがたいことに、車の番組やイベントに出演させていただく機会をいただけて。今後はバイクの免許も取りたいし、将来的にはレースやラリーなどの競技にも挑戦してみたい。いろいろな車にも出合いたいし、乗ってみたいですね。
【勇翔】自分の視野を広げていけるよう、どんなことにもチャレンジしていきたいです。経験は必ず自分の軸としていく「お芝居」の道でもプラスになっていくはずなので。自分で「やりたい」と思うことをどんどん探しつつ、お話しいただけたことには全力で取り組もうと思います。
――最後に、今後のお仕事の告知をお願いします。
【勇翔】6月には、名古屋で戦国時代がテーマの舞台「第0章 雷鼓〜戦国の約束〜」に出演します。舞台上に大きな和太鼓が設置されていて、和太鼓の迫力と殺陣のアクションが楽しめるユニークな内容です。そのなかで僕は「左京」と「右京」という二役を演じます。見どころのある役なので、ぜひ楽しみにしていただけたらうれしいです。
【勇翔】また、7月に東京、8月に大阪で、劇団「STRAYDOG」がプロデュースする鳥居みゆきさん主演の舞台「幸せになるために」への出演が決まりました。この作品は「日本航空123便墜落事故」をテーマにした舞台で、事故に巻き込まれた遺族を描いた物語です。何度か過去にも上演されている作品で、とても重要な役どころなのでプレッシャーもありますが、気合いを入れて頑張りたいなと思っています。
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