
「仏教」や「お経」というワードに、なんとなく堅苦しいイメージを抱いている人も多いのではないだろうか。僧侶(浄土真宗本願寺派)である近藤丸さん(@rinri_y)が2023年に発売した「ヤンキーと住職」は、とある寺の住職と仏教が大好きなヤンキーの交流を通して、誰でも楽しく仏教の教えを学べる漫画だ。
今回は、同書から印象的なエピソードを抜粋・編集し、作者である近藤丸さんのインタビューとともにお届けする。
■「お経を読む」行為に込められた意味とは
「お経を読むこと」の意味について、仏教の歴史の中でさまざまな解釈がされてきました。私は浄土真宗本願寺派という宗派の僧侶なので、浄土真宗の場合について、自分なりに学び考えたところを述べてみようと思います。とはいえ、多分に私の思いや個人的意見や解釈が入っていますので、その点を加味して読んで頂けたら幸いです。また、私の意見を絶対と思わずに、ほかの僧侶の方や学者の方の意見を聞いたり、ご自身でさまざまな仏教書に当たって調べたりしてもらえたらと思います。
お経は、ブッダが人々の悩みや苦しみに寄り添う中で語った言葉を、後の人たちが書き留めたテキストのようなものです。ですから法要や日々のお参りの中でお経を聞くことの主な意味は、私たちが今ここで教えを聞き、大切なことに目覚めていくということになります。
お経は、それを読むことでお祓いをしたり、自分に都合のよいことが起こったりする「呪文」ではありません。私たちが自己の生き方を問われたり、お経を鏡として生きることや生きる道を問い尋ねるものなのです。そういう意味では僧侶も、それ以外の人も、お経の内容を「聞く者」なのです。ですから、僧侶が読むお経にだけ功徳があり、それ以外の人が読むお経には功徳がないということではありません。どちらも仏様のお話を、ここでもう一度聞いていくということなのです。
■「僧侶」は、仏教を求める人たちのリーダー的存在
「自分の代理としてお経を読むことができるのだろうか?」と考える住職に対しヤンキーは、「衣がお経を読むわけじゃない」と言います。「生きている私たちが聞くべき教えというお経の意味に着目し、その部分を強調した表現としてこう描きました。
「お坊さんを呼ばなければ悪いことが起こります」とか「お坊さんがお経を読まなければ、意味がありません」ということは、浄土真宗では言いません。しかし「お坊さんを呼ぶこと」の中にも、とても大切な意味があります。この漫画に描かれた「ヤンキーがおばあさんの家にお経を読みに行く」という状況は、現実だと考えにくいですね。
浄土真宗本願寺派では僧侶の任務として、次のことが示されています。
「僧侶はお釈迦様や宗派を開いた方に奉仕して自ら真実のさとりを目指し、また他の人にも教えを説き、共に大切なことに目覚めていくことを目指す仕事に専念する必要がある。そして、寺院を守り発展させていくことに努めなければならない」
僧侶は仏教の教えに頷き、自分の生き方にしようと決めた者です。ですから僧侶は仏教に従った生活をし、法話をし、お経を読み、その姿によって仏道を人々に伝えることを専門にしています。そういう意味では仏教を求める人たちのリーダー的存在です。これは偉いという訳ではなく、そのようにあろうとする人との意味だと捉えています。
葬儀の際、お坊さんのことを導師といいます。導師には葬儀や法要の儀式を導き、しっかり執り行うとの意味があります。そして導師は今からどのような儀式を行うのか同席している人たちに伝え、お経を読みます。つまり浄土真宗の場合、葬儀などの儀礼は、仏さまの前で多くの人々と共に、教えを聞く空間なのです。参列者をリードし、仏さまと教えを聞く空間を作り、読経や法話を通して仏教を伝えていく使命が僧侶にはあるわけですね。
お経は内容だけでなく、その響きや美しさを通して伝わるという面もあります。丁寧に、大切に唱えられたお経から、何かを聞き取る人がいる。お経には独特の節回しがあるものも多いので、日々読経の練習をし、さまざまな訓練をしている僧侶でなければ難しいものもありますね。そのお経に感動した人が、また日々お経を読むこともあると思います。
今回のインタビューに答えるために岡崎秀麿先生・冨島信海先生の著書「ねぇ、お坊さん教えてよ どうしてお葬式をするの?」(本願寺出版刊)、渡辺照宏先生の「お経の話」(岩波書店刊)を参考にさせて頂きました。より詳しいことが知りたい方は、是非これらの本を手に取ってみて下さい。