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「佐渡島の金山」のスペシャリストに聞く、佐渡島が世界に誇る遺跡とは

  • 2023年1月24日
  • Walkerplus

ユネスコの世界文化遺産登録を目指す新潟県・佐渡島(さどしま)にある「佐渡島(さど)の金山」。“金山=金が採れる山”という認識はあっても、どんな文化的な価値があるのかって意外と知らない人が多いのでは。そこで、佐渡金銀山の情報を発信するガイダンス施設「きらりうむ佐渡」を訪ねた。

■佐渡島の金山が「世界遺産」にふさわしいワケ

佐渡島は東京23区の1.4倍、854.8平方キロメートルの広さがあり、島が丸ごと佐渡市というひとつの自治体。島内には55もの鉱山があり、主な金銀山遺跡を総称して「佐渡金銀山」と呼ばれ、世界遺産に推薦されている「佐渡島の金山」は「西三川砂金山」と、江戸時代に最大の産出量を誇った相川金銀山を含む「相川鶴子(あいかわつるし)金銀山」で構成されている。

佐渡金銀山の産出量は17世紀からの約400年間で金78トン、銀2330トンと日本最大級!最後の鉱山が休山したのが、ごく最近の1989年(平成元年)というのも驚きだ。本格的に採掘が始まったのは17世紀だが、実はその歴史はもっと古く、島全体の文化の形成にも深く関わっているという。「きらりうむ佐渡」の石川喜美子さんに詳しく伺った。


――まずは佐渡島に金銀山が誕生した経緯を教えてください。

平安時代後期に書かれた『今昔物語集』に、能登の国の鉄掘(かなほり)集団の長が佐渡国で砂金を採るという逸話があり、その舞台が西三川砂金山のある西三川川流域だといわれています。また1434年に佐渡に流された世阿弥(室町時代の能役者)の小謡集『金島書(きんとうしょ)』には「かの海に、金の島(こがねのしま)あるなるを、その名を問へば佐渡と云也(いふなり)」と記述され、古くから遠い京都にまで佐渡の産金の話が知れ渡っていたことが分かります。その後、1542年に鶴子銀山が発見され、続いて16世紀末には相川金銀山が開発されるようになりました。

――「佐渡島の金山」は、なぜ世界遺産にふさわしいのでしょうか。

佐渡で金が採れる場所は、西三川砂金山のように川から砂金を採取するもの、相川金銀山のように山から鉱石を掘り出して金を採取するものがあります。19世紀半ばまで手工業で金が生産されていて、作業の工程や採掘された場所が絵巻物や絵図などの資料できちんと証明できるというのが強みですね。金の歴史は紀元前4000年、紀元後2000年で、6000年もありますが、ヨーロッパには佐渡のように手作業の時代の大規模な遺跡は残っていないようなんです。また、金鉱石と砂金の両方が採れる場所も、世界中を見てもなかなかないんですよ。

――「高度な技術によって坑道が掘られていた」とのことですが、ほかの金山との違いは何でしょう。

坑道を掘る作業そのものはほかの鉱山でも同じですが、佐渡では作業がしやすい工夫がなされています。1つは換気です。本坑道のほかにもう1本の副坑道を掘り、途中で20~30メートルおきに貫通させて自然に空気が流れるようにしています。2つ目は排水処理です。相川金銀山は金を求めて海面よりも深く掘り進められました。鉱山を深く掘り進むと湧き出る地下水に悩まされ、排水処理ができないと水没して金を掘ることができません。その解決策として1691年から5年の歳月をかけて「南沢疎水道」という約1キロの排水坑道を開削しています。3つ目は測量の技術です。たとえば南沢疎水道は工期を短縮するために6カ所から同時に掘って1本の坑道にしたにもかかわらず、貫通した場所の誤差がわずか1メートルほどなんですよ。長い歴史の中、さまざまな技術が発展していったんです。

――江戸時代には金の採掘から小判の製造までを同じ地域で行う唯一の土地だったようですが、その理由を教えてください。

佐渡島内では佐渡一国限り通用する銀貨「印銀」を鋳造し使用していました。山師(鉱山の経営者)や商人が佐渡から出国する際には印銀を全国通貨と交換する必要があり、そのためにはある程度のお金を準備しておく必要がありました。そのほか鉱石から製錬された筋金(すじがね)や灰吹銀(はいふきぎん)を江戸に運び、小判や一分金に換金したあと、再び佐渡に戻す従来の方法では海上輸送が危険なこと。

また佐渡の床屋と呼ばれる製錬所が独占的に行っていた製錬では、鉱石に含まれる金銀の含有率を低くするなどの不正があとを絶ちませんでした。これらの理由で江戸の金座(幕府が管理する金貨の鋳造機関)職人を佐渡に招き金貨を製造させることにしたんです。このようにして始まった佐渡での小判製造は1621年からのこと。佐渡にはお金を作って徳川幕府を支えたという輝かしい歴史があるんです。

――もっとも隆盛を極めたのはいつ頃のことですか。

16世紀後半~17世紀前半(戦国時代後半から江戸時代初期)ですね。金銀山の採掘のために日本中から多くの人が移り住みました。もともと十数軒しかなかった相川地区には江戸時代の金銀山の発展とともに最大5万人もの人が暮らしたといわれています。人が多く入ったということはそれだけ食料が必要になるので田畑を開拓して米も作り、住む土地が足りないので埋め立ても行われました。現在の相川地区は山間部までが埋め立てる前の土地、それより海側は江戸時代に埋め立てた土地なんですよ。

――人が多く集まったことで文化はどのように発展・定着したのでしょう。

いろいろな地域から人の流れとともに芸能や風習などの文化も伝えられました。能役者を父に持ち佐渡に代官として赴任した大久保長安が、金銀山が繁栄するようにと神事能を奉納したことがきっかけで、その後「能」が島内に広まりました。能舞台は、かつて約200カ所あったといわれるほど庶民に親しまれ、現在でも35カ所の能舞台が残り地域の人たちが継承しています。毎年5月から10月ごろまではどこかで能をご覧いただくことができると思います。そのほかに佐渡では祭りも盛んです。地域ごとに趣のある鬼太鼓が舞い、五穀豊穣・家内安全を願い家々を回ったり、神社に奉納したりします。

また、北前船の寄港地でもあり、全国的にも有名な「佐渡おけさ」は、九州のハイヤ節が佐渡に伝わって、のちに佐渡の代表的な民謡になったものです。佐渡には金銀山で働いた人の子孫が残っていて、こうした文化を守っていたり、金銀山や町のガイドをしたりしています。そうした「人」がいることも鉱山町の特徴のひとつです。鉱山開発に伴い多くの人が暮らし、今の佐渡があるので、世界遺産になって佐渡を多くの方に知っていただきたいです。

■目指すは2024年度の「世界遺産登録」!

江戸時代の日本を支え、島内に暮らす人々にも大きな影響を与えた「佐渡島の金山」。世界遺産登録に向け、現在、新潟県と佐渡市が一体となって活動している。その内容や今後の見通しについて新潟県庁と佐渡市役所にも話を聞いた。

政府が昨年2022年2月にユネスコに提出した推薦書の不備が指摘され、現在は2023年2月1日(水)までに推薦書の改訂版を再提出するべく動いている。「推薦書を提出したあとは、秋以降にユネスコの諮問機関・イコモスによる現地調査があります。その後、最短で令和6年度に世界遺産委員会が開かれて登録の可否がわかります」と、佐渡市役所の世界遺産推進課課長・正治敏さん。

イコモスの現地調査を前に、大きく2つの課題解決に取り組んでいるという。1つは「価値の見える化」だ。「佐渡島の金山には絵巻や絵図などの金銀山に関する資料が多く残っているので、現地で使えるセルフガイダンス機能の整備に活用しています。たとえば現地でスマホの動画を見て昔の様子と見比べることができるようなものです」と正治さん。2つ目は「おもてなし環境の充実」。「デジタルを活用し、現地でQRコードを読み込むと日本語だけでなく英語でも情報が見られるなど、インバウンド対策を含めた施策を進めています。また、佐渡島には金山以外にもトキ、ジオパークなど多くの魅力があるので、佐渡を横断するような施策をしていきたい」と語った。

新潟県ではこうした佐渡市の活動を補助金などでサポートするほか、佐渡金銀山の認知度向上に精力的に取り組んでいる。「新潟県民の方をはじめ多くの方々に世界遺産への活動を知ってもらうため、県内外でPR活動を実施。世界遺産登録の声は1997年に相川地区の民間団体に始まり、20年以上取り組みが続いています。県民の悲願でもあるので、登録実現に向けて精力的に取り組んでいきたい」と、新潟県庁の世界遺産登録推進室室長・澤田敦さん。1月は、21日(土)に東京新潟県人会館「ふれあいふるさと館」(東京都台東区)で講演会『甲斐・石見から佐渡へ』を開催、28日(土)・29日(日)には東京スカイツリー(東京都墨田区)でPRイベントを行う予定だ。

古くから“こがねの島”とうたわれた佐渡島。豊富な資料に裏付けされた伝統的な手工業が評価され、世界文化遺産に登録されることを期待しよう。

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