全国的に盛り上がりを見せるコーヒーシーン。飲食店という枠を超え、さまざまなライフスタイルやカルチャーと溶け合っている。なかでも、エリアごとに独自の喫茶文化が根付く関西は、個性的なロースターやバリスタが新たなコーヒーカルチャーを生み出している。そんな関西で注目のショップを紹介する当連載。店主や店長たちが気になる店へと数珠つなぎで回を重ねていく。
大阪市西区で2021年にオープンしたばかりの「喫茶水鯨(すいげい)」。一見して新しい店とは思えない、年代物の家具やレトロな調度は、店主の山口さん夫妻が、金沢で長年続いた名喫茶から、閉店後に引き継いだもの。全国で年々少なくなりつつある喫茶店の魅力を知るにつけ、「後世に残したい文化遺産として、喫茶店の良さを継いでいきたい」との思いを強くした山口さん。秘めた意志と熱意を形にした、古くて新しい店の稀有なストーリーをたどる。
Profile|山口修平
1989(平成元)年、大阪市生まれ。調理師学校を卒業後、ケータリング会社のシェフとして就職。仕事の合間に通った喫茶店の魅力に惹かれて転身。大阪の名喫茶で働いた後に、2019年からジャパン・コーヒー・フェスティバルに参加。2020年に東淀川区の喫茶店の間借り営業で「喫茶水鯨」をスタート。その間も全国の喫茶店を巡る中で、石川県金沢市の老舗・禁煙室の閉店を知り、店の設備を引き継いで大阪へ移設。2021年に間借り店舗から独立開店。
■多忙な日々を癒やした喫茶店でのひと時
「喫茶水鯨」があるのは、明治時代の大阪開港時に、外国人居留地が設けられた大阪市西区川口界隈。当時の面影を残すモダンな建物の扉を開けると、緋色の絨毯に唐草文様のローチェア、大きな窓のステンドグラスの光彩が、シックな空間にひときわ映える。実はこれらの家具・調度は、金沢で約50年続いた喫茶店から移設したもの。初めて訪れたなら、随所に年季を感じるこの店が、まだオープンして1年足らずだとはよもや思うまじ。
「カフェでなくて、喫茶店ならではのくつろげる空間を作りたかった。調度品のデザインとか、お客さんの会話とか…いろんな要素がありますが、日々、人と人のつながりが生まれているという安心感のようなものが、“喫茶店のくつろぎ”につながると思っています」。そう話す、店主の山口さんが、喫茶店の文化を残す活動に取り組むまでになった原点は、自らの実体験に深く根差している。
以前はケータリング会社の料理人として、華やかなパーティメニューを手掛けていた山口さん。ハードな仕事の合間に、貴重な息抜きの場だったのが喫茶店。意匠を凝らした設えや、職人仕事の家具が醸し出す、独特の安らぎに満ちた空間は、やがて山口さんの日常に欠かせないものに。独立を考える頃には、自ら喫茶店を開くことに迷いはなかった。
「開店を目指してコーヒーのことを勉強しようと、大阪・新世界の喫茶の老舗で働き始めたんですが、名物のミックスジュースの注文ばかりで、ほとんどコーヒーのことに触れる機会がなくて(笑)。コーヒー豆は他から仕入れようと思っていた時に、出会ったのが珈琲焙煎研究所 東三国のコーヒー。雑味がなくおいしかったので、店主の川久保さんに相談してみたら、焙煎機を使わせてもらえることになったんです。趣味程度に家で手網焙煎はしていましたが、本格的に焙煎を始めたのはこの時からですね」。それが縁で、後に川久保さんが主催するジャパン・コーヒー・フェスティバルへも出店。これが、「喫茶水鯨」の屋号を掲げての第一歩になった。
■2人の熱意で実現した金沢の老舗・禁煙室の移設
その後、東淀川区の喫茶店で週一回の間借り営業をスタート。一方で、店作りの参考とするべく、現在の奥様・加奈さんと共に始めた全国各地の喫茶店巡りで、喫茶店が置かれた現状を知ることになる。「ある店で、閉店を決めたマスターから、“自販機とコンビニに負けた”という話を聞きました。今では再現できない内装や家具が簡単になくなってしまうのが口惜しくて、自分で新しい店を作るより古い店の跡を継いでできないかと考えるようになったんです」。近年は純喫茶の魅力が改めて脚光を浴び、ユニークな空間やメニューにも注目が集まっているが、中でも独自の喫茶文化が根付く関西では、老舗を引き継いで開業する動きがいち早く現れ、“継承喫茶”ともいうべきスタイルが比較的多く見られる。
とはいえ、一見、双方にとって良い話に見えるが、実際は簡単な話ではない。「全国で閉店する店に直接話をしたり、すでに閉店した店に置手紙をしたり、10数軒ほど当たりましたが、常連でもないのにいきなり“跡継ぎはいますか?”と聞くと怪しまれます。時には、財産目当てと思われることもありましたね」と振り返る。
それでもめげずに、SNSの情報を頼りに情報を集め、地道に各地を訪ね歩く中で、ある日、金沢の喫茶店・禁煙室の閉店の報に触れる。「最初に訪ねた時に、思い描く理想の雰囲気だと感じたのを覚えていました。カウンターやステンドグラス、タイルもきれいに使われていて、何よりマスター夫妻の素敵な人柄が印象的で、“こんな風になれたらいいな”と思ったんです。だから閉店の知らせを見てすぐに電話しました」。2人が禁煙室を訪ねた3カ月後にマスター・前野克祐さんは亡くなられたが、その後は妻の玲子さんが店を続けていた。だが、山口さんが電話した時には、耐震工事による建物の取り壊しが決まっていて、すでに閉業の意思は固かった。一度は断念しかけた山口さんだが、再び背中を押したのは川久保さんだった。
「“普通は門前払いだから、断られはしたけどちゃんと話を聞いてくれるなら望みはあるはず”と言ってもらったんです。正直、諦めムードでしたが、この時に川久保さんに相談しなかったら、今のこの店はなかったですね」。店を継ぐことができるなら、金沢に住んでもいい。気を取り直し、移住する覚悟まで秘めて直接、禁煙室を訪ねた山口さん夫妻。2人の強くまっすぐな熱意が伝わり、店をそのまま継ぐことはできなかったが、内装をすべて譲り受ける形での継承を実現した。「屋号も継ぎたかったのですが、玲子さんからは“禁煙室の名前は金沢で終わりたいから、喫茶水鯨としてやればいい”と言ってくださいました」。それは、新たに店を始める2人の熱意に応えた粋なはなむけだったかもしれない。
■喫茶店との強い縁を感じる偶然の重なり
そこからは怒涛の展開。閉店から取り壊しまでの2カ月のうちに、内装や家具を大阪へ運び出す大仕事が待っていた。取り外せるものはすべて持ち帰るつもりでいたが、どれも50年近くを経た年代物。そこで古材の再利用を得意とする木工職人の知人を頼り、ほとんどを無傷で解体し、山口さん夫妻も自らトラックを駆って約300キロを運搬。喫茶店の継承としては類を見ない過程を経て、2021年、「喫茶水鯨」は開店した。
長年、積み重なった埃やタバコの脂を丁寧に落とした禁煙室の内装は、新たな居所を得て創業当時の輝きを取り戻した。メニューには、3色のクリームソーダやシナモンシュガーアップルトーストなど、禁煙室の名物を再現したものも。コーヒーの品揃えには多彩なスペシャルティコーヒーも並ぶが、看板の水鯨ブレンドは、禁煙室の定番だった深煎りブレンドに近い風味をイメージ。苦味があって、後味はすっきりと、コーヒーが苦手な人も飲みやすい味が理想だ。手回し型とほぼ同形のシンプルな焙煎機は、「直火式なので豆が焦げないよう注意して、ドラムに火があたらないよう、遠火で水分をじわじわと抜いていく感覚」と山口さん。すっと体に染み入るまろやかな苦味とコクは、店の雰囲気にも似て、どこか懐かしさも覚える味わいだ。
他にも、ホットケーキやプリンアラモードといった純喫茶の人気メニューが揃うが、これらの中には偶然、発見された“昭和の喫茶遺産”が生かされているものもある。「この物件の前のオーナーさんの身内が、かつて喫茶店学校に通っていたようで、店の改装中に当時の教科書が見つかったんです。ホットケーキやプリンアラモードは、そのレシピを元に作ったもので、いずれは他のメニューも出していきたいですね」。偶然ということでいえば、「喫茶水鯨」があるこの場所。奇しくも明治末期、大阪で最初のカフェといわれるカフェー・キサラギが開業した、いわば大阪の喫茶店の発祥の地でもある。まるで山口さん夫妻を待っていたかのように、重なった数々の偶然もまた、2人の喫茶店愛が呼んだ縁に思えてくる。
■時間と空間を超えて受け継がれるくつろぎの時間
イベント出店から、間借り営業を経て独立開業まで、およそ2年を駆け抜けてきた山口さん夫妻。店を切り盛りする傍ら、喫茶店文化を継承する活動にも取り組み、今も欠かさず情報収集を続けている。「店をそのまま継ぐ形がベストですが、建物ごと壊すところは調度や家具を引き取る形になります。いつかさまざまな店の家具を配した博物館的な店を作りたいですね。昔の職人さんがしっかり設計しているものは、頑丈で長く使えるように、というホスピタリティが伝わる。まだまだ使えるものが多いので、そこを皆さんにも気付いてもらえればうれしい」
若い世代からも喫茶店が注目を集めるようになったのは、SNSの普及によるところも大きいが、そこに一抹の危惧もあるという。「このままブームで終わってほしくないという思いもあって、この店がモデルとなって、若い人に“こういうやり方もあるんだよ”と知ってほしいし、できれば真似してもらいたいくらい。今も閉店の情報を見ると、本当は直接訪ねたいし、その後どうなるのかは気になります。店を始めた今は自分で動けないので、各地で喫茶店を愛するファンが増えれば、店主の思いを一緒に継ぐ人も増えるのではと思っています」
山口さん夫妻が始めた古くて新しい店が伝えたいのは、喫茶店という場が持つ無形の存在感だ。「店を続けるうちに気付いたのですが、喫茶店は神社に似てるかもしれない。来るものは拒まず、目的はいろいろあるけど気軽に入れて、自然と人が集まる場所。時々、お客さんから“お祖母ちゃん家に来たみたい”と言われることがあるんですが、店にとって最高のほめ言葉。自分が思う“喫茶店のくつろぎ”のイメージそのものですね」
まもなく開店から1年を迎えるが、金沢から2人を見送った玲子さんは、コロナ禍によりまだ大阪に来られていないんだとか。「一番に来てほしかったのですが、まだ写真でしか見てもらってなくて。電話で話していつも元気をもらっているので、早く見てほしいですね」。店を訪れた時、玲子さんはどんな感慨を抱くだろうか。禁煙室から「喫茶水鯨」へ、受け継がれた思いを乗せて、くつろぎのひと時はこれからも続いていく。
■山口さんレコメンドのコーヒーショップは「DONGREE BOOKS & STORY CAFE」
次回、紹介するのは、2020年に京都市から滋賀県湖南市に移転した「DONGREE BOOKS & STORY CAFE」。
「店主の柴崎さんはデザイナーでもあり、妻がカメラマンとして一緒に仕事をしていた旧知の仲。2人で開店前の相談にも乗ってもらいました。京都から移転後は、店舗をDIYで作ったり、自家焙煎を始めたりと、新しい試みを経て移転前から大きく変わった、滋賀で注目の一軒です」(山口さん)
【喫茶水鯨のコーヒーデータ】
●焙煎機/Collins焙煎機 1.5キロ(直火式)
●抽出/ハンドドリップ(コーノ式)
●焙煎度合い/中浅煎り~深煎り
●テイクアウト/あり(480円~)
●豆の販売/ブレンド1種、シングルオリジン7~8種、100グラム650円〜
取材・文/田中慶一
撮影/直江泰治
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