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フェイクだったリンカーンの写真など、お騒がせな歴史的肖像5選

  • 2024年5月26日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

フェイクだったリンカーンの写真など、お騒がせな歴史的肖像5選

 5月14日に公開された英国王チャールズ3世の新たな公式肖像画は、君主の姿が真っ赤な背景に埋もれるように描かれ、肩のあたりに1匹のチョウがあしらわれている。この作品は発表されるやいなや、世界中で議論を巻き起こした。真っ赤な色彩は王のレガシーを表しているのだろうか。王室の過去についての表現だろうか。それとも、極端な表現で臣民の注意をそらすことを狙った策略なのだろうか。

 さまざまな憶測が飛び交っているが、こうした反応は今に始まったことではない。歴史上、肖像というものは常に何らかの目的や象徴のために作られ、論争やトラブルを巻き起こしてきた。

エイブラハム・リンカーン

 第16代米大統領エイブラハム・リンカーンの有名な肖像写真が、実際には本人の立ち姿を写したものではなかったことが明らかになるまで100年を要した。世間では今、人工知能(AI)を使った写真の加工について議論が高まっているが、1865年ごろの肖像は、画像に手を加えることがいかに容易かを改めて思い起こさせてくれる。

 肖像のリンカーンの頭部は実のところ、19世紀半ばの米政界における最大の奴隷制支持者のひとりだったジョン・C・カルフーンの体に貼り合わされていた。

「リンカーンの肖像になるよう加工されたジョン・C・カルフーンの肖像、なだらかに垂れるローブなどの小道具、連邦主義者に置き換えられた分離主義者」は、「リンカーンを米国の神のような地位に引き上げた」数多くの写真のひとつだったと、リンカーンの写真を題材とした共著書があるハロルド・ホルツァー氏は説明する。

アン・オブ・クレーブズ

 アン・オブ・クレーブズを描いた肖像画は、イングランド王ヘンリー8世が彼女と結婚するきっかけとなったと言われている。アン・オブ・クレーブズは1540年1月6日、ヘンリー8世の4番目の妻となった。

 その前年に、ヘンリー8世は、現在のドイツにあったクレーフェ公国に側近を派遣して、アンの弟であるヴィルヘルム公に接触させた。政治的な同盟相手を必要としていたヘンリーは、ヴィルヘルムの姉との結婚を望んでいたものの、まずは未来の花嫁の容姿を確認したいと考えていた。

 ホルバインによるこの有名な肖像画に加え、ヘンリーの側近トマス・クロムウェルにはアンの美しさが、また国王には、彼女は「適齢期であり、健康な気質、優美な体格などの美点を備え」、子どもを産むのに理想的であるとの情報が伝えられた。

 アンがイングランドに到着したときのヘンリーの反応は、満足とはほど遠かった。「彼女はまるで美しくない。人柄はよく上品だが、それ以外は何もない」と彼は言い、さらに彼女がはるばるイングランドまで来ていなければ、また彼女が自身の敵のだれかと結婚する恐れがなければ絶対に結婚しなかったとまで発言したとも伝えられている。

 ヘンリー8世はアンと結婚したものの、結婚生活はわずか数カ月しか続かなかった。二人の婚姻はそもそも成立していなかったとして、1540年7月9日に無効とされた。

次ページ:結果的におそらく最も有名になったチャーチルの写真

ウィンストン・チャーチル

 これは英首相ウィンストン・チャーチルの写真としてはおそらく最も有名であり、また彼の逆鱗に触れたものでもある。1941年、チャーチルのカナダ滞在中、写真家のユーサフ・カーシュは、この英国人政治家の写真を撮る機会を1度だけ与えられた。

 カーシュによると、「チャーチルは絶えず葉巻をくわえて」おり、「灰皿を差し出しても、それを捨てようとはしなかった」という。カーシュはカメラのところへ戻り、チャーチルが自ら葉巻を口から外すのを待った。

 しばらくののち、カーシュは「チャーチルに近づくと、その場の思いつきで、しかし非常に丁重に、『お許しください、サー』と言って彼の口から葉巻を抜き取った」。カーシュは言う。「私がカメラの前に戻ったとき、チャーチルはあまりの敵意に、こちらを食い殺しそうな表情をしていた。写真を撮ったのはその瞬間だった」

 この写真は結果として、チャーチルを永遠に象徴する瞬間をとらえたものとなった。

レオポルト1世

 数多くの肖像画にはさほどはっきりと描かれていないが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世はハプスブルク家の人間に特徴的な顎(あご)を持っていた。下顎が極端に前に突き出るこの症状は、現代では下顎前突症(かがくぜんとつしょう)と呼ばれている。

 気に入らなかったのかもしれない身体的な特徴(近親交配によるものと考えられている)を強調する代わりに、この肖像画は、レオポルトの姿をどこか華やかで際立った存在として描いている。

 レオポルトの外見には、思わず目を引かれる明確な特徴がある。たっぷりとした茶色の髪が流れ落ちる肩から、鑑賞者の視線はこの17世紀末の支配者の口元へと導かれる。ベンジャミン・フォン・ブロックが描いた丸みを帯びた真紅の唇は、赤い背景と皇帝の体を包むマントによって、さらに際立った印象を放っている。しかし、フォン・ブロックがいかに力を尽くそうとも、レオポルトの異名「ホグマウス(ブタの口)」のもとになった特徴を完全に隠すことはできなかった。

ナポレオン

 統治者の肖像をプロパガンダに利用する戦略はナポレオン・ボナパルトが始めたものではないが、彼の賛美者であり画家のジャック=ルイ・ダビッドは、その技術を極めた人物と言えるだろう。

 ダビッドによる肖像画『アルプスを越えるナポレオン』は1801年から1805年の間に5枚作成され、そのいずれもナポレオンが堂々たる馬にまたがり、いかにも将軍らしい装いで前方を指差す姿を描いている。肩にかかるマントは1枚ごとに異なり、馬の毛色も同じではないが、アルプスを越える皇帝の神々しさを描き出している点は一貫している。

 同作は、ロシアのピョートル大帝の騎馬像などの作品を参考にしており、鑑賞者に一目でナポレオンの武勇を想起させる。ナポレオンは肖像画のためにポーズをとることを拒否し、ダビッドにこう言ったという。「偉人の肖像画が本人に似ているかどうかは誰にもわからない。天才が生きているだけで十分なのだ」

 結局、ナポレオンは正しかった。ナポレオンの遺した功績が、最終的にはダビッドのような芸術家の作品による影響を受けて、事実と神話が入り混じったものになったことは間違いない。

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