みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。
早いもので、新年度が始まってもう2ヶ月が過ぎました。学生でも社会人でも、研修期間というか、慣れるための時期を終えて、そろそろ具体的な活動/仕事に入っていかないといけない時期だと思うので、この連載も新生活のためのガイドみたいな話はひと区切りつけてエコ連載らしい話に(笑)、移らないといけませんね。
とは言え、昨年の3月以来、いろいろなことがそれ以前とはずいぶん位相を変えてしまいました。エコの取り組みについても、一時のブーム的な盛り上がりが落ち着いたのは当たり前のことですが、それどころかある意味では状況が後退して、「エコなんて言ってる場合じゃないよ」という雰囲気が出てきていることは否めないと思います。実際、そういうこともやむを得ないかなと思えるような厳しい状況がまだまだ続いている地域があることも承知しています。それでも、そうした現実も含め、エコの取り組みに関する状況のこうした変化は、すっかり手軽に使われるようになった“エコ”という言葉についてあらためて考えてみる、良い機会であるようにも思います。
で、いきなり個人的で具体的な話になりますが、この連載のVol.30で「ペットボトルを使わないことにするのがいちばんすっきりするかもしれない」と、僕は書きました。それからすでに3年経ってしまいましたが、いよいよというか、ペットボトルはもう買っていません。
この連載をずっと読んでくれている人はご存知だと思いますが、僕は「ペットボトルは分別せずに燃やしてしまうほうがいい」という考えです。ただ、それ以前に「ペットボトルを使うってどういうこと?」という問題を改めて考えてみる必要があるんじゃないでしょうか。その第一歩というか、前提として、ペットボトルとビン/カン/紙パックとの間にある超えられない壁を、実践のなかで実感してみてもいいんじゃないかなと思います。まあ、実際にやってみると、単にすっごい面倒なんですけどね(笑)。出かけ先で水が買えないし。
現時点では「自分はペットボトルを使う。ただ、その処理の仕方についてはいちばん有効な方法を考えたい」というのが、現実的なエコ的スタンスということになるのかもしれません。だとすれば、使い終わったペットボトルをどう処理するか?ということ、もっと言えば資源として捉えた時に何に変えるか?ということが次なるテーマになってきます。
先にも書いた通り、この連載でペットボトルの分別問題についての僕の考えを紹介し、ゴミ処理場の見学に出かけたりしたのは3年前ですが、それから現在までの間にペットボトルの処理に関する状況も大きく変わりました。例えば、今年4月付サントリーサイトのニュース(http://www.suntory.co.jp/company/research/environment/bottle.html)をご覧いただくとわかりますが新技術によって「新たな石油由来原料を全く使わないペットボトルの製造が可能となりました。」とあります。これまでは不可能だったわけです。このニュースの時点ではまだ市場にも出まわっていません。Vol.30でもかいた通り、ボトルtoボトルの取り組みは2000年代初頭にもあったはずですが、それと実質的にどう違うのでしょうか。もしこの技術革新が(将来的な見通しも含む)コスト面でも優れていて、CSRやイメージ戦略としてでなく真面目な商売感覚で採用されているのであれば、僕のペットボトルリサイクルに関する違和感は一掃され、僕がまた「普通に」ペットボトルを買う日が来るかもしれないと期待しているので、いま調査に乗り出したところです。サントリーさん、これ見てたら連絡下さい(笑)。また、使用済みペットボトルを処理/加工して制服にする、あるいはぬいぐるみにするといった話がありますが、それはオープン・リサイクルというか、日本国内では閉じていないサイクルです。その過程で日本の税金が実質的に中国の工場のために使われているという事実があったとしても、それはそれでいいという立場は僕も認めます。ただ、あの震災を経て、さらにはいろいろな原因が重なったこの不況の日本で、今そういうことを言ってる場合ですか?という問題はありますよね。具体的に言えば、1本のペットボトルをどこかの国の人のためにぬいぐるみに変えることに僕らのエネルギーと税金を費やすよりは国内でそのままエネルギーに変えたほうがいいんじゃないか、ということです。
実際、ペットボトルというのは非常に有能なエネルギー源なんですよね。で、そこで僕が言いたいのは「“ペットボトルは燃やすべき”という僕の考えに同調したほうがいいよ」という話ではなくて、「“何がエコか?”というテーマは、社会の状況や科学技術の発達によってどんどん変わっていく」ということです。だから、「エコについて考える」ということは社会の変化をみつめるということなんだろうし、また常識とされていることの本質を折にふれて柔軟に考え直していくということなんだろうと思います。
何か「いいこと」をルールにしたり、大きな流れにするためには単純化が必要です。単純化にはどうしても方向が付きます。リサイクルが「自然のために」「地球のために」「シロクマのために」などと社会の一員としての自分の実際の生活感から離れてしまうことがあるのはそのせいだと思っています。「もったいないから」「きもちいいから」など、自覚の上で自分の欲求に落としこんだ活動として出来るのが理想だと思っています。その点からいって、ペットボトルリサイクルの現状は「きもちわるい」んです。だから僕は、この気持ち悪さがなくなるまでペットボトル製品を買いません。もしどうしても(健康に重大な影響があるなどの)必要性があるのにペットボトル飲料しかない場合は、脱原発のためにフランスから電気を買うドイツのように、僕のおごりで誰かが勝手に買ったのを分けてもらうことにします(笑)