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Vol.86 お金を払う側も受け取る側も手間を惜しまないということが大事

  • 2011年11月24日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。
 今回もお金に関わる話です。

お金イメージ  被災地では、復興のための資金を集める方法として様々なファンドを設立し、インターネットなどで投資を募集するという形がけっこう行われているようですが、そういう資金提供の要請が重なってちょっと困っている人がいるという話を聞きました。困っていると言っても、お金が足りなくなっているというような話ではありません。たとえば、最初カキの養殖一口1万円の話には納得してお金を払ったが、次に養豚、さらには植林、みたいに同じような話が続いてくるとなんだか気持ちが萎えてきてしまったというのです。しかも、気持ちが萎えている自分に対して良心の呵責みたいなことも感じているそうです。

 この状況に対する僕の考えははっきりしていて、自分のお金を払うんだから、自分が違和感を感じたら、そこでやめればいいと思うんです。で、やめようと思ったときに、“同じ枠組みなのに最初の話には払って次の話には払わないのは自分に良心が足りないからか?”みたいに考えるのは違うと思います。これは、環境保全などエコに関する問題でも同じだと思いますが、“ファンドに投資するのは結局自分の欲のためにやってるんだから”というのが僕の考え方で、仮に“これは自分の欲のためじゃなくて良心でやってることなんだ”ということだとしても、話が重なってくるなかで乗り続けるほど良心がなかったということでもいいじゃないかとも思うんです。だって、お金を払うことで表す良心というものには、必ずどこかの地点で限界が来るんですから。当たり前ですよね。普通、誰でも自由に使えるお金には限界があるものです。でも、お金の切れ目が良心の切れ目ではないですよね。

 逆に考えれば、お金を集める側もそういうケアが足りないのかもしれない。こういうことを言うと、被災している人たちにそんな余裕はないよという声が聞こえてきそうですけどね。やってるところもありますが例えばファンドに乗ってくれた人には「参加者だけに送られる情報です」というような形で、いま本当に起きていること、そこで感じたことを感謝の気持ちとともに届けるっていう、そういうことだけでもずいぶん違うと思うんです。お金を集めるためのアイデアはすごくいいから、次はその人たちのアフターケアを考えるということにも向かっていい時期に来ているかもしれないですね。「あなたはいいことをしました」というだけじゃなく、平時の一般的な感覚として投資の配当がちゃんと得られている、というふうにしていかないと、ファンドのような形でお金を集めるというやり方をとってはいけないと思うんです。それは、本当に一生懸命そこまで考えてやっている人に失礼だから。

 ここで、再び払う側の話にも戻ってくるわけですが、この人たちはちゃんと考えてやってるのかなということを冷静にチェックして、それでそうでもないなということになったときに、それでもこの人たちは生活が大変だし、そのための支援として、投資ではなく寄付しておこう、ということで払えるんだったら払えばいいし、無理ならやめるということですね。つまり、相手の有り様をしっかりちゃんとチェックして、その内容に合わせて自分の行動を決めるべきだと思うんですよ。やる気はあるけど余裕がないからケアができていない人もいれば、現在の玉石混交状態を利用しようとしているだけの人もいるわけだから、そのなかでたとえ騙されてもいいやと思う人はお金を払えばいいんですよ。行政でさえ信用できないところがあるわけだから、もう本当に自分で責任を持つしかないですよね。その場合に、良心の問題とか、そういうふうには考えないで、自分がやりたいと思うことをやっていくのがいいんじゃないかと思いますし、僕はそういうふうに向き合いたいと思っています。


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