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Vol.84 僕がなぜ、支援する人を支援するのか?

  • 2011年10月27日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。
 前回はAWSとしての新しい取り組みを紹介しましたが、それを読んで「北山はどうしてボランティアの人たちにお金を払うのか? お金を使うなら、もっと他に使い道があるんじゃないか?」と思われた人もいると思います。確かに、お金を必要としているところは他にもたくさんありますが、僕が何度か被災地に行って、現地で復興に取り組んでいらっしゃるいろんな人たちと話すなかで思ったことのひとつは“僕が支援すべきは、いまある支援の枠組みから漏れてしまっている人たちだろう”ということでした。被災者を支援する枠組みは、いろいろ問題があるとは言いながら、それでもやはり行政が中心になって整えられつつあります。が、そうした支援の枠組みの対象になっていない、そしておそらくは今後もなる可能性が少ない人たちというのがいます。例えば、仕事をやめてしまって、貯金を取り崩しながら、あるいは失業保険から生活費を出してボランティアに取り組んでいる人がいるんですね。そういう人たちのなかには、「失業保険が終わったら、その後はどうするの?」みたいな心配を抱えているケースがたくさんあります。しかも、そういう人たちの多くは、仮にいなくなったら被災された人たちが精神的、物理的に大きなダメージを受けるような立場でがんばっている人たちです。考えるとゾッとするような、じつに危うい状況が現地にあるわけです。

お金イメージ
 しかし、ボランティアの人たちは、ボランティアであるという理由でその人たち自身の状況が顧みられることはあまりありません。だって、そういう厳しい状況も承知のうえで自発的に取り組んでいるのがボランティアでしょ、というわけです。確かに、ボランティアという言葉の意味から言えば、そういうことになるかもしれませんが、でも現実問題として被災地ではそういう人たちの力が継続的に、しかも、長期にわたって必要な現実があります。その現実に対応していくには、やはり金銭的な裏付けは必要だと僕は思うんです。
 日本人の意識のなかには、善意の気持ちをお金に換算することにすごい抵抗があるじゃないですか。でも、それで本当にいいのかどうか考えてみてくださいということです。「いいですよ、お金なんて」と言える人だけがやればいい、ということでは、現状には対応できないし、仮にできたとしても長くは続きません。それを理解してもらうためにも、被災地の現状を包み隠さず表に出していって、さらには実際にがんばっている人たちにお金を支払う形の実例を作ることが大切だと考えました。
 厳密に言えば、お金ではなくても、何か対価が支払われればいいと思います。だから、例えばボランティアの経験をレポートなりにまとめれば、それに対して単位をあげる制度を始めた大学がありますが、基本的には悪くないアイデアだと思います。ただ、それにしてもその大学が仮に東京の大学なら、被災地までの往復の交通費や宿泊費など、そこにかかる実費はかなりの額になってしまうでしょうし、そのお金が工面できなくてボランティアに参加できないという学生もかなりいるんじゃないでしょうか。だから、そういう実費くらいは払ってあげようよというのが僕の考え方なんです。
 善意を、善意として、善意のまま届けるには枠組みが必要だと思うんです。経験のないうちに個人の感覚に任せてやってしまうと、往々にして悲劇が起こるものです。関わっている人がみんな善意でやってるのに、いざこざが起こるっていう。それを避けるためにはやはり仕組みがあればいいんだろう、と。さらに言えば、続けたいと思っている人を続けさせてあげるためのボランティアというか支援というのもあるだろう、と僕は考えました。
 そういう枠組みができることによって、行政と、重機を使って瓦礫処理をリードする建設業者とボランティア・センターがいろんな情報を共有したり、作業計画を立てやすくなったりすればいいなとも思っています。そこから支援が広がりをみせて、仮設住宅や避難所を担当している、またはしてきた個人ボランティアの皆さんも、継続の為の金銭的な支えを得られる仕組みができていったらいいな、と妄想しています。それにはまだまだ時間がかかるかもしれませんが、僕としては地道にやっていきたいと思っています。次回は、AWSアカペラプロジェクトについて話そうかなと思っています。気が変わったらごめんなさい(笑)


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