みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。
前回は、社会起業を考える前段として、インターネットが発達したおかげで社会の「分裂」化が進んでいる状況があると僕は考えているのだけれど、そういう状況に「カタリバ」はとても優雅な方法を提示したと思う、というところまでお話しました。
「カタリバ」の的確さとは、核家族化とかインターネットの発達などによって自分とは違う嗜好や欲求を持った人間とわざわざコミュニケーションする必要がなくなった現状があるけれども、でも人間は「違う」人たちとコミュニケーションしたいという欲求を本来的に持っているし、そうすることに喜びを感じるという一面があるんだということに向き合っているということです。自分が知らないことを知っている人と知り合ったりするのは楽しいし、自分の知らない世界を知ることで自分の世界が広がることがうれしいと感じるものですよね。そういう楽しみ、喜びを得る機会が失われているんだということを、自分たち自身が違う人たちと語り合うことを通して、世の中に知らしめたのが「カタリバ」だと思うんです。「カタリバ」とは分裂していたものがつながる「場」である、というふうに言えるかもしれません。
もっとも、時代が変わっていって、社会の常識や法律、組織の役割もどんどん変わっていくということ自体は、インターネット時代だから起こったことではなくて、昔からずっと繰り返されてきたことです。それに従って人と人との関わり方や様式も変わっていくわけですが、その流れのなかで、ある規模の集団やコミュニティが元々持っていた機能や役割が失われていってることが多いと思うんです。実際、この国では鎖国を解き、さらに戦争に負けて、いろいろな国の価値観を採り入れ、あるいは受け入れさせられ、食生活も変わり、結果として日本人というもの自体が大きく変わったんじゃないでしょうか。それでも、社会の意識は鎖国時代の日本人の良識というものを前提にし続けているように感じます。まずはその前提から抜け出すことが大事だし、それは「いまやこの国はモザイク状になっているということを認めましょう」ということでもあります。社会としてところどころ歯抜けになっていたりする、と。その抜けた穴を埋めるのが社会起業のひとつのあり方だろう、と僕は思います。ディフェンシブな社会起業というか、かつてあった価値観やコミュニティを取り戻そうとする動きですね。これはすごくわかりやすいし、それだけに新しい視点も加えやすいと思います。街を掃除するNPOなどもこのパターンですよね。逆に、時代を先読みするというか、「こういう社会になるだろうから、となるとこういうニーズが生じるはず」というふうに考えていくのもありますね。介護事業などはこのパターンでしょうか。
いずれにしても、社会の課題というか改善の余地をどこに見出すのかという問題意識のあり方が問われると思うんですが、そこで僕はまた社会の分裂傾向を意識してしまいます。現代においてはその問題意識が客観的に判定される状況があまり用意されていなくて、むしろどんどん孤立化が進んでいる、つまり分裂しているように感じるからです。そうした状況のなかで社会起業を進めようとすれば、自分のアイデアにどれくらい客観的な価値があるかということについて人に話をする、もっと言えば考え方や嗜好が自分とは違う人とこそより積極的に話してみることがいっそう大切になってきているんじゃないかと思うんです。同好の士がすぐ集まるという状況は、例えば利他意識の高い人が集まったりしてボランティア活動には有利かも知れません。ただ、その人たちはやれても、そのやっている内容をシステムとして他の人や地域に広げていくことは難しそうです。そもそも意欲が高い人ばっかりでできたシステムだと動機付けの方法は不要かもしれなくて、でも一般的にはそこが一番重要だったりする、ということもあるだろうと思います。 同じ考え、嗜好の人ばかり集まってたら「このままじゃいけない」って、自分がやっていることを検証するチャンスが少なくなりそうです。だからこそ、現代において社会起業を始めるには、敢えて異種格闘技戦を挑んでいくような果敢な精神が必要であるように思います。
時代は変わっていくものだけど、時代を変えていくのは我々の考え方や行動ひとつひとつですからね。
次回は、ある意味ではこれがいちばん大切なんじゃないかとも思う、お金の話などをしたいと思います。