みなさん、こんにちは。いよいよツアーに突入したゴスペラーズの北山陽一です。
ゴスペラーズは、このツアー中にメジャー・デビューから満18年を迎えます。日本の音楽シーンを見回してみると、僕らよりももっと長い間第一線で活躍されているアーティスト/グループはたくさんいらっしゃいますが、それにしてもコーラスワークをベースにした僕らのスタイルはデビュー当時の日本のシーンにおいては相当珍しいものだったし、そのなかで自分たちのスタイルを守りながら活動を維持していくためには僕たちなりにいろいろと試行錯誤を続けています。その試行錯誤の内容が、地域コミュニティや志を同じくして集まった社会貢献活動グループの維持に取り組んでいる人たちにとっていろんな示唆を含んでいるのではないかという指摘を受けたのですが、さてどうなんでしょう? ウチは、ある意味ではかなり特殊な集団ですからねえ(笑)。
ゴスペラーズ/Newアルバム『STEP FOR FIVE』
それはともかく、最近の試行錯誤の例をひとつ紹介しましょう。先日リリースしたニュー・アルバム『STEP FOR FIVE』では、メンバーそれぞれが最初から最後まで自分自身で歌いきることを前提にゴスペラーズに曲を提供し、他の4人にどう参加してもらうかということまで含めてプロデュースも担当するという、“アルバム内ソロ・コーナー”みたいなことをやってみました。18年目にして初めて。そこでは、一人ひとりが、ある意味ではグループを無視して自分を深められるかどうかということがカギだったと僕は思っていて、それは例えて言えば、僕らが18年間耕してきたゴスペラーズという土地があって、その自分たちの土地の範囲からどれだけSTEP OUTできるか、という試みだったと思うんです。その試みはかなりのリスクも伴っていたと思いますが、それも承知で僕らがそこに挑んだのは、ゴスペラーズという存在に対する自分たちの意識の保守化みたいなことを感じていたからではないかと思うんです。
例えば、ゴスペラーズの黒沢はカレー好きが高じて本を出したり、オリジナルのレトルトカレーを販売したりしてますが、そこでの黒沢は思い切り自由にカレーを楽しんでいるんだろうし、他の4人のメンバーはそれを単純に面白そうだなと思いながら見てる、っていう感じです。ところが、ゴスペラーズの曲を書くとなると、「ゴスペラーズとは」という自分なりの枠組みから出なくなってるんですよね。誰かに曲を提供する場合はすごく自由に書いてるのに、ゴスペラーズの選曲会議に出す曲を作るとなると、グループの曲として成立する曲になりがちなんです。だから、今回の“アルバム内ソロ・コーナー”企画は、ゴスペラーズの外でやるのと同じくらい自由にやれるようなひとつの形として提案されたことだと僕は思っています。
実際のところ、ゴスペラーズというレストランのメニューはこの18年間に、じつはほとんど変わっていないんですよね。ただ、それをどうにかして少しでも良くしようというエネルギーはずっと高いままキープされている。で、そのエネルギーの使い方は、メンバー一人ひとりの責任に任せられているっていう。そこにグループとしてのダイナミズムも生まれるわけですが、同時に一定のリスクもはらんでいるとは思います。そういう緊張感もはらみながら、しかしグループはしっかりと維持されていることのすごく大きな理由は、ゴスペラーズが原理共産主義だからなんですよ。ゴスペラーズの収入は必ず5人に均等分配されるっていう。その土台があるからこそ、今回のように自分たちとテリトリーだと思っている範囲の外へ出ていくこともできるわけです。そして、そういう試みもクリアしてみて思うのは、外に出て行ってやってると、これ以上は出ていくとまずいでしょというところに達することがあるのかもしれないけれど、その頃にはゴスペラーズのテリトリー自体についての世の中の評価はもっと広くなってるから、そこは安心してSTEP OUTして行っていいんだなということです。
さて、これを読んでくれている人たちの周りのコミュニティやグループの参考になったでしょうか(笑)。ただ、とりあえず今回の話は、グループの維持という話だけではなく、自分というものと向き合う場合にも言えることかもしれないなと思います。話は前々回に戻っていくのですが、「astro note」という曲で僕が伝えたかった“それでも、やるんだよ”という思いは、自分という枠組みを押し広げていこうとすることで果たされていくのかもしれないですね。
※北山さんへ多数のご質問ありがとうございました!
回答につきましては、今後ぼんやり学会の記事内にて回答させていただく予定です。