さまざまなクリエイターによる旅のリレーコラム連載。第38回は、写真家の中川正子さん。東京から岡山に移住してきてから豊島美術館に数多く通っていた。しかし美術館に行かない「豊島」を体感することに。島の暮らしから何を感じたのだろう?
80代なんてまだ若者。島の元気なおばあちゃんたち豊島のことは知っているつもりでいた。世界でいちばん好きな美術館は〈豊島美術館〉であると公言していたくらいなのだ。2011年に東京から岡山市に移り住んでからは、県外からの友人を何人連れていったことか。フェリーのデッキで海風を浴び、レンタサイクルで美術館を目指す。巨大な空間を堪能し、いくつかほかのアートも鑑賞する。おいしいごはんを食べてまた船に乗り込み、岡山へ帰る。それがわたしの豊島の旅だった。
でも、島の暮らしの気配は、ぜんぜん知らなかった。ただの通りすがりの旅人だったのだ。単なる美術館好きの。
そんな折、友人に紹介されたのがレイコちゃん。豊島で生まれ、10代で故郷を飛び出しオーストラリアへ。パートナーと出会い、息子が生まれ、30代で家族を連れ島に戻ってきた明るいエネルギー溢れる人だ。古民家を再生したすてきな一棟貸しの宿〈とくと〉を営むかたわら、地元の個性豊かな民泊を紹介する活動もしている。彼女に、豊島の魅力を伝える写真をお願いできないかと頼まれ、喜んで引き受けた。
泊まったのは民泊のひとつ、ヤマネさんの家。戦前生まれのヤマネさんがひとりで営む宿だ。レイコちゃんがニコニコ紹介してくれる。がらがらとドアを開けると部屋は掃除が行き届いて気持ちがいい。三角巾をきりりと巻いたヤマネさんは背筋が伸びていて笑顔が最高にチャーミング。テキパキと動く姿には働き者の気配がある。さっと出してくれたお茶を飲む。おばあちゃんちみたいでほっとする。
夜はレイコちゃんをはじめ、宿で地元の友だちと宴になった。ヤマネさんのつくってくれたごはんは食卓からはみ出んばかりに山盛りでお腹がはちきれそう。楽しい夜はふけ、準備してもらったふかふかの布団で眠った。
翌朝7時ごろ。台所で誰かがそっと働く音で目が覚めた。なにやら揚げているようだ。早朝に揚げ物をした経験なんてわたしはない。いや、朝はおろか、午後だって揚げ物はちょっと面倒だ。こんな時間に? 台所をのぞくと、三角巾とエプロン姿のヤマネさんがいた。なんて早いのだ。大量のおいしそうなものがあった。コロッケ、アジフライ、ソーセージ。宿泊したのはわたしだけだ。これ、何人前なのだろうか。
「起きたんね。おはよう」
ヤマネさんはキビキビと手を動かしながら笑う。ぼさぼさ髪で半分ねぼけてぼうっと立っているわたしとは対照的だ。80代の父より年上なのに、なんとお元気なのだ。わたしの脈絡のないおしゃべりに付き合いながら、彼女はマルチタスクですごい勢いで料理を仕上げていく。
そうだ、この島の女性は働きものばかりだとレイコちゃんが言っていた。ヤマネさんは宿のほかに酒屋さんも営み、畑仕事も鶏の世話だってしている。なんという仕事量! 彼女に限らず、たいていの人は家族分くらいの野菜は自分でつくっているから畑仕事で常に忙しい。地域では何かと寄り合いがあったり、スポーツのサークルがあったり、コミュニティの行き来も盛んだ。
昨日出会った、高齢だけどまったく高齢らしからぬエネルギッシュな女性は「80代なんてまだ若者よ」と豪語していた。そして90代の方のお世話を若者の波動でこなしていた。帰りに畑から採ったばかりだというみかんを山ほどもらった。「みかんもたくさん採らんといけん、ああ忙しい」と笑っていた。
彼女たちには居場所があって、やるべきことがたくさんある。友だちも仲間も家族も、いる。
「wi-fiのパスワード、壁に貼っといたけどわかった?」
ヤマネさんは揚げ物の手を止めずに言う。若い宿泊者も多いここでは、彼女の意識が日々アップデートされていることを会話の端々に感じる。おいしそうなお味噌汁がコンロで湯気を立てている。味噌の香りで低血圧のわたしもやっと頭が冴えてきた。よそうのを手伝う。
さて、食卓に並べられた朝食は、やはり育ち盛りの男子中学生が喜ぶくらいの量に見えた。大量のおかずがずらりと並ぶ。そう、ヤマネさんはサービス精神が旺盛なのだ。しかしこれは……、ひとりでは食べきれない気がする。急遽レイコちゃんを呼ぶことにする。
かけつけた彼女と一緒にふうふう揚げ物を平らげた。副菜も手がこんでいて、おいしい。島で採れる野菜は季節のものだけだから、「きゅうりだってこう、冷凍して使ってるんよ」。
ヤマネさんは暮らしの知恵をたくさん教えてくれる。息子さんがどこか途上国の支援をして働いている話も聞く。彼女のタフネスを彼も受け継いでいるのだろうか。
「ごちそうさまでした!」
ぱんぱんのおなかをさすりながら出かけるわたしたちを彼女は大きく手を振って見送ってくれた。
午後は地引網体験に混ぜてもらうことになった。都会っ子のわたしは地引網どころか普通の釣りだってほとんど経験がないというのに。地元の漁師さんに仕組みとコツを教わり、子供たちに混じって取り組む。宿で働くマユちゃんの友だちのヨーロッパのメンバーも参加し、老若男女、国籍も入り混じる。小雨がふってきた。構わず、みんなでえいえいと網をひっぱる。たのしい。さらに思いっきりぐいっと引っ張る。
わいわいと引き上げた網にはたくさんの魚がかかっていた。歓声があがる。ちいさなものは海に戻し、何匹かをいただく。なんと、鯛もいるではないか!
岸辺ではレイコちゃんのお母さんが羽釜ごはんを炊いていた。おかずもずらりと並べ待ってくれている。その場で焼いた鯛とつやつや炊き立てのごはん。最高のメニュー。朝ごはんでぱんぱんになったおなかはいつのまにか空いている。体を思いっきり使ったとき独特の空腹感だ。
小雨と水しぶきと汗で全身濡れている。それがものすごく気持ちがいい。岸に座ってみんなでばくばく食べた。やがて雨は強くなり、びしょびしょのわたしたちにはふしぎな一体感があった。アイラインもマスカラもすっかり落ちた顔で、みんなで意味もなく笑った。
ギリギリのタイミングでフェリーに走って乗り込む。毎度欠かさず訪ねる美術館に行くひまは、なかった。港でずっと手を振ってくれる友だちが見える。こちらも両手を大きく振り返す。
わたしは今だって通りすがりの旅人にはちがいない。それでも、島がこれまでとはまったく違って見えた。そこに暮らす人々が毎日をたくましくつくっていることを少し、知ったからだ。
ありがとう! また来るね!
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Masako Nakagawa 中川正子
写真家。自然な表情をとらえたポートレート、光る日々のスライス、美しいランドスケープを得意とする。写真展を定期的に行い、雑誌、広告 、書籍など多ジャンルで活動中。2011 年3月より岡山を拠点に、国内外を旅する日々。写真集に『新世界』『IMMIGRANTS』『ダレオド』、135年の伝統を持つ倉敷帆布の日常を収めた『An Ordinary Day』、直木賞作家、桜木紫乃氏との共著『彼女たち』など。文章執筆の仕事も多数。最新作は、東京から岡山へ移住してからの日々を振り返った初のエッセイ集『みずのした』。
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Masako Nakagawa
中川正子